十二月二十日、上倉市に雪が降った。年中通して気候が穏やかなこの土地で、雪が降るというのは珍しい事だった。大陸から流れ込んだ記録的寒波の影響で、強い風に運ばれた雪が全国的に吹き荒れ、テレビでは大雪のニュースが連日放送されていた。上倉市は元々が雪の降りにくい土地であるため大した事はなく、アスファルトやコンクリート以外の、樹木や家の庭といった場所だけがうっすらと白くなる程度で済んでいた。それでも雪が降るほどの寒さに慣れない人々にとって厳しい天気である。正午を過ぎても雪は降り続けており、上倉学園三年C組の教室では、教室の中央にひとつ置かれたストーブを囲んで、冷え切った手足を擦り合わせて温めている生徒達の姿があった。ほど近い席に座る可児恵介は、椅子の背もたれに身体を預けたまま、うつらうつらと頭を揺らしていた
「おい、起きろよ恵介。起きろってば」
小突かれて顔を上げると、目の前で立っている茶髪の同級生がにへらと笑った。クラスの名物でもあるお調子者、望月純である。背は恵介よりも拳ひとつ分ほど背の高い一七七センチで、茶色に染めた髪を肩まで伸ばし、スケベだがどこか憎めない顔つきをした男子生徒である。
「ふわぁ……なんだよ純。休み時間くらい寝かせてくれよ」
「授業中だって寝てるだろー。むしろ休み時間くらい起きれ」
大あくびの寝起き顔に、純は軽いツッコミチョップを入れる。恵介は目を覚ましても眠そうにしているが、彼は普段からこんな目つきであり、身長は一七〇センチ、その他は顔つき体格共に平凡な、どこにでもいる普通の高校生男子である。
「こんな寒い日は寝るに限ると思うな、うん」
「まあまあ、そんなお前をホットにさせるいいものを持ってきたんだよ、ほれ」
周囲を気にした後、彼は制服の懐からラベルの貼られていないDVDのケースを取り出して、恵介の懐に押し込んだ。
「おわっ」
「いつもの礼だ、取っとけ。選びに選び抜いた極上セレクトだぜ、ひっひっひ」
「ん、その様子だと激写ボォイ三号は役に立ったみたいだな」
「おう、数学の春牧がヅラを外す瞬間を激写してやったぜ。あの野郎、なかなか隙が無くて苦労したけどな。その写真を拡大プリントして、職員室の壁に貼り付けてきてやったら、みんなの視線がアイツの頭に集まっててよ……くっくっく」
激写ボォイ三号とは、ラジコンカーにデジカメを搭載し、遠隔操作でシャッターが切れるようにした優れものである。純と恵介は、いつも悪意のある小言を投げつけてくる数学教師に一杯食わせようと密かに画策していたのだが、恵介が徹夜で作った撮影マシン「激写ボォイ三号」は見事に役割を果たしたようである。プリントアウトした写真を恵介に見せながら、純はキシシと笑う。
「春牧の奴、真っ青になっちまってさ。ケッサクだったぜ、プププ……これからはハゲ牧って呼んでやろうぜ」
「少し気の毒だけど、あいつの嫌味は本当に腹が立つからな。少しは懲りただろ」
「しかし恵介、お前の腕は天才的だな。さすが工具を握って育っただけはあるぜ。いつかモビルスーツとか作れそうだよな、マジで」
「はは、それしか能がないんだよ」
恵介は機械いじりが何より好きだった。彼の実家は小さなバイク屋で、物心ついたときにはガレージに入り浸り、オモチャ代わりに工具や機械の部品を手に取って遊んだものだった。ガレージには取り外して使わなくなった部品がいくらでもあったから、遊び道具に困ることはなかった。中学に上がる頃になると、壊れた原付バイクを修理して動くようにしたりと、機械に対する知識と腕は大人も認めるほどに上達していたが、それに没頭するあまり、近所の子供がテレビゲームやトレーディングカード集めに夢中になっている時も、恵介はガレージの隅で機械の部品を弄くり回していたのである。おかげで長い間、恵介は友達らしい友達がいなかったが、彼はそれをなんとも思わなかった。バイク屋には常連のバイク乗りがいつも出入りしていたから、ロボットアニメの続きよりも、彼らが旅した土地の話を聞いたり、お下がりのラジコンやパソコンをもらって使い方を学び、自分で改造したりして遊んでいた。だから彼にとって、同年代の子供が夢中になっているものは幼稚なものにしか見えなかったし、そんな遊びの輪に入りたいとも思わなかった。
そんな恵介に初めて同級生の友達が出来たのは、中学校に進学した時のことだった。ある時、技術の授業で恵介が作った精巧な模型に感心した望月純は、周囲と距離を置く恵介に声を掛け、次第に打ち解けていった。純は次々と突拍子のないイタズラを考えては実行に移し、純にはそのための小道具を作ってくれと頼んできた。目的はともかく、自分の腕を見込んでの頼みとあっては恵介も悪い気はせず、色々と手を貸しているうちに、二人は一緒に行動することが多くなった。ラジコンを徹底的に改造して地元のレースで優勝したり、近所迷惑な暴走族のバイクを分解してみたり、校内放送の回線を乗っ取って海賊放送を行い、大音量で落語やロックンロールを流している所を教師に見つかり、二人そろってひどく怒られもした。あまり後先考えない純に振り回される形ではあったが、恵介は気心の知れた同年代の友人を得ることが出来たのである。
「――で、恵介的にはどんなのが好みなんだ?」
「うーん、鑑賞するには大きい方がいいなあ」
真剣に語る恵介と純の回りには、他の男子生徒も寒さを忘れて集まっている。それというのも、恵介の机の上に開かれている本が原因だった。純が持ってきた「テラべっぴん」というタイトルのその雑誌には、色っぽいお姉さん達が、むちむちのボディを惜しげもなく顕わにしている。
「出ましたよ恵介先生の名言が。この野郎、人畜無害な顔して結構スケベだからなー」
「純はスケベな顔してスケベなんだろ?」
「ぴんぽーん、ご名答っ。正解の恵介さんには豪華ハワイ旅行をプレゼント……ってコラ」
二人が軽口を言い合っていると、周りを囲んでいる男子の壁が急に開いた。その間にひょっこり入ってきたのは、セミロングの髪を明るく染め、両耳にピアス、ナチュラルメイクをしてスカートの丈をギリギリまで詰めた――少し派手な今時の少女といった外見のクラスメイト、宇佐(うさ)みゆきだった。
「みんなで集まって何してるかと思えば、こーゆー事かあ」
みゆきは机の上に開かれた雑誌に目をやった後、恵介を見てにやりと笑い、肩にポンと手を置いた。泣きぼくろがチャームポイントな目元や、うっすらルージュを引いた唇が印象的だが、元々セクシーで綺麗な顔立ちをしている事もあり、メイクやファッションを使いこなした美少女である。
「機械にしか興味ないのかと心配してたけど、あんたも健全な男子だったんだねー」
「うわっ、堂々と入ってくるなよみゆき」
「いーのいーの、私はそんなの気にしないから。むしろ安心した感じ?」
「とっほっほ、お前に心配されていたとは」
人付き合いが少なかった恵介の例外――そのもうひとつが彼女だった。みゆきの自宅は恵介の家のはす向かいにあり、黙々と作業に集中するのが好きな恵介とは対照的に、みゆきはあっけらかんとして明るく、騒がしいくらいに元気な少女だった。恵介が機械を弄っていてもお構いなしにやってきて、恵介の隣でひたすら喋っていたり、祭りやクリスマスのようなイベントには、ガレージにこもる恵介を引きずり出して無理矢理参加したものだった。幼い頃からの付き合いだけに、互いにべたべたしすぎない距離を保って接していたのだが、高校に入学したくらいの頃からみゆきは変わってしまった。メイクやファッション、高価なアクセサリーなどに興味を持ち、悪い評判が目に付く連中との遊びにも染まり、彼女の噂――特に節操がないと言われる男関係――を耳にする度、恵介は心配したものだった。
「おいおいうさみー。お前はもうちっと恥じらいを学べ。俺が言うのもなんだけどさ」
みゆきの登場で気まずくなった空気を打開しようと、純が声を掛ける。
「まったくよね。分かってるじゃない純くん」
「……おい」
「ところでさ」
純のジト目をさらりとかわし、みゆきは椅子に座ったままの恵介を見る。
「恵介っておっぱいが大きい方が好みなの?」
「い、いや、特にそんなわけじゃ」
「さっき鑑賞には大きい方がいいとか言ってたじゃん」
「あれは例えで……」
みゆきが目を細め、小さく口の端を持ち上げたのを見て、恵介は嫌な予感がした。彼女がこんな顔をする時は、決まってろくでもない行動に出る時なのだ。そして恵介の心配通り、みゆきはブレザーのボタンを外して両腕を組み、胸を持ち上げて恵介に迫った。みゆきは身長一五八センチと、女子としては平均的な体つきをしているのだが、胸だけは服の上からでも分かるほど大きい。純を含めた周囲の男子の目が彼女の胸元に集まっていたが、みゆきは気にする様子もなく、ぐいぐいと恵介の方へ近づいていく。
「どう? どう? 結構育ってるでしょー。嬉しい?」
「あわわわ」
からかうような視線でこちらを見ながら、みゆきはまるで大きな膨らみを誇るように身体を反らす。目の前に二つの膨らみが迫り、恵介は慌てて仰け反ったが、背もたれに体重をかけ過ぎて、そのまま床にひっくり返ってしまった。
「いてて」
「あはは、恵介ったら赤くなってるー。かわいいー」
「お、お前なあ……」
「で、感想は?」
「言うだけあって確かにでかい……昔はぺったんこだったくせに」
「んふふ、そうでしょー。恵介の知らない空白の年月が私を変えたのよっ。女は目を離したら化ける生き物なんだから」
ブレザーのボタンを元に戻しながら、みゆきはけらけらと笑う。打ち付けた後頭部をさすりながら起き上がると、購買のサンドイッチとイチゴ牛乳を手にした男子生徒が教室に入ってきて、恵介たちの前で立ち止まった。
「なんだか騒がしいな。みんなで集まって何やってるんだ」
一見どこにでもいる顔に見えるそのクラスメイトは、望月純の親友である坂井光太郎だった。純は光太郎の肩を掴んで輪の中に連れてくると、机の上に置かれたエロ本を指して訊いた。
「まずこれを見ろマイフレンド。で、お前はどんなのが好みなんだ? 大きい方か小さい方か。どっちかね、んん?」
「……お前ら暇なんだな」
呆れた目で純を見る光太郎に、みゆきも近づいて顔をのぞき込む。
「あー、坂井くんの好み私も知りたーい」
「なんだうさみー、光太郎狙ってんのかあ? やめとけやめとけ」
「違うわよう、純粋に好奇心ってやつ。で? で? どうなの坂井くん?」
興味津々なみゆきに光太郎はため息をついた後、雑誌をまじまじと見つめ、呟いた。
「観賞用には大きい方がいい。なぜなら、おっぱいには男の夢と浪漫が詰まってるからだ」
そう言いきった光太郎の瞳には、一点の曇りもない。その男らしさに胸を打たれ、恵介は素早く右手を差し出していた。彼の顔もまた、一点の曇りもない表情だった。光太郎は頷き、力強く恵介の右手を握り返す。光太郎とは今まで純という接点以外にあまり繋がりはなかったが、二人の間には無言の友情が芽生えつつあった。
「こいつらって……」
「もしかして同類(バカ)?」
純とみゆきは華麗な連携で言葉を繋ぐ。みゆきは気を取り直し、机の上で開きっぱなしの雑誌に目を落とした後、冷ややかな視線を向けてきた。
「ま、男って大体こんなモンよねー。彼女がいても他人のおっぱいで喜ぶんだから」
痛いところを突かれ、回りの男子生徒達は黙り込んでしまう。だが純は真面目な顔をして首を振り、恵介はみゆきの肩にポンと手を置いて、言った。
「よく聞けみゆき。それはそれ、これはこれだ」
「ぷっ……あははっ! ここまで言い切ると清々しいかもっ。ダメさ全開のセリフだけど……あははは!」
みゆきは腹を押さえて笑い転げた後、涙目のまま顔を上げた。
「あー、久々にツボ入ったわぁ。でもさー、気をつけなよあんたたち。特に坂井くん」
みゆき名指しされ、光太郎は目を丸くする。
「お、俺か?」
「私は平気だけど、こういうの気にする子もいるし。はるかっちの前であんなセリフ言ったら怒られるよー」
「ふっ……どんなに旨い料理でも、毎日同じじゃ飽きるだろ。たまには違うメニューを食うのも大事なんだよ。それにあくまで観賞用だ。そこんところアンダスタン?」
「うっわ、いかにも男のセリフって感じ」
「ま、はるかのは色も形も大きさもすご――」
その時、修羅のごとき形相の女子生徒が光太郎の後ろに立っているのを見て、恵介は息を呑んだ。クラスどころか学園で一番との評判高い、和泉はるかだった。容姿も成績も抜群、快活な性格で誰にでも優しく、夏休みの後に光太郎と交際を始めてからは女らしさにますます磨きがかかった、どこをとっても非の打ち所がない美少女である。はるかは目にも止まらぬ速さでしなやかな足を振り上げ、光太郎の脳天めがけてかかとを振り下ろす。当然はるかはスカートだったが、光太郎の身体に遮られてパンツは見えなかった。
「ごふぅ!?」
「私のがなんですって?」
背後から聞こえる声に、光太郎の顔からさーっと血の気が引いていくのが見えた。ぎこちなく振り返った光太郎は、はるかの表情を見て、ヘビに睨まれたカエルのように固まってしまった。
「あちゃー、言ってるそばから奥さん登場だわ。血……見るかもね」
生唾を呑み込みながら、みゆきはそそくさと逃げ出した。周りにいた男子生徒たちも、修羅場の空気に気圧されてじりじりと輪を広げていく。はるかは拳をぽきぽきと鳴らし、怒りの火炎を纏いながら一歩ずつ光太郎に近づいていた。
「いいい、いやなんでもないんだ。今日も可愛いなあはるか。わはははは」
「そんなんで誤魔化されると思ってんの?」
「うぐっ……」
「大勢の前で恥ずかしい事いうなバカーーーーーーーーッ!」
「ぎゃーーーーーっ!?」
光太郎が鉄拳の餌食になると同時に、回りに集まっていた生徒達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。恵介も自分の席の近くにいられなくなり、教室の廊下側へと逃げて、一番端っこの机の影にしゃがんで隠れていた。すると隣の席に座っていた女子生徒が、自分の姿をじっと見ているのに気が付いた。腰に届くほどの髪を頭の後ろでひとつに束ねており、切れ長の目つきと長いまつげの端整な顔立ちと、凛とした雰囲気を持つクラスメイト、一宮真理(いちのみやまり)だった。彼女は身長が一六五センチと女子生徒の中では背が高く、足の長いスレンダーな体型で、可愛いよりも美人という表現が似合っているのだが、恵介に向けられる瞳は軽蔑の色に満ちていた。
「いい気なものね」
「えっ?」
「授業中はずっと居眠り。目を覚ましたと思えばいやらしい本で騒いだりして。寝るのも騒ぐのも私の知ったことじゃないけど、あなたたちのせいで迷惑してる人がいるってことを忘れないで」
真理の口調は冷淡で刺々しい。彼女の言い分が正しいだけに、恵介は返す言葉もなかった。
「ああ、えっと。申し訳ない。つい場のノリで」
「まったく、下品なことを大声で……大きさがどうとかこうとか……不愉快だわ」
真理が小声で呟いたのを、恵介は聞き逃さなかった。彼女をつま先から頭のてっぺんまで眺めた後、起伏の少ない胸を指して恵介は言った。
「あ、もしかして……気にしてる?」
その瞬間、彼女が持っていた分厚い辞書が恵介の顔面を直撃した。真理は席を立ち、大の字にひっくり返った恵介に絶対零度の視線を浴びせて吐き捨てた。
「最っ低。男なんてみんなガサツでスケベでデリカシーのない生き物なのね」
真理が足早に立ち去ると、入れ替わりに純とみゆきがニヤニヤと笑みを浮かべながら近づき、しゃがみ込んで恵介の頭をつつく。
「おーい、生きてるか」
「……死んでる」
「バカだなーお前。俺だってあそこは空気読むぞ。一宮がガリ勉の堅物てのは有名だろー」
「う、うかつだった」
純の隣にいるみゆきも、教室を出て行く真理を見ながらあきれ顔で呟く。
「なーんか今日は一段と機嫌が悪そうだったねー。一体なんて言って怒らせたの? あ、もしかしてあの日とか?」
「あ、あのな。そういう事を大声で言うな」
「彼女苦手なんだよねー。冗談が通じないし気が短いし。ま、向こうも私のことなんか嫌いだろうけどさー。それと関係ないかもだけど、体育の時間とかになるとすっごいガン見してくるし。あれってなんでだろ」
それはたぶん胸の事なのだろうなと恵介は思ったが、口に出すのはやめておいた。女を怒らせると怖い――ぐるぐると回る天井を眺めながら、恵介はひとつ学習していた。
「それにしても、いつまで降り続けるのかねー、この雪は」
午後の授業も全て終わり、校舎の出口で恵介は一人呟いた。雪の勢いは弱まったが、空は相変わらず灰色で、吹き付ける風は身を切るように冷たい。去年のクリスマスプレゼントでもらったカシミヤのマフラーを巻いて歩き出そうとした時、真横からもみの木の鉢植えがいきなり現れ、避ける暇もなくぶつかってしまった。
「え……うわっ」
「きゃっ」
鉢植えとぶつかった恵介は、葉に積もった雪をたっぷりと浴びて上半身が真っ白になってしまった。思わず閉じた目を開けてみると、目の前に鉢植えを抱えた小柄な女子生徒が立っていた。
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
女子生徒は鉢植えを置き、ハンカチを出して恵介の顔を拭く。
「前がよく見えなくて。冷たかったでしょ?」
「へ、平気だよ。ちょっと驚いただけさ。それよりも、えーっと……ごめん君の名前知らないや」
「あっ、私は葉山唯(はやまゆい)。クラスは三年A組よ」
唯と喋るときは恵介が彼女を少し見下ろす形になり、唯の身長はおよそ一五五センチかもう少し低いくらいだと見て取れる。細くてサラサラした、明るいブラウンがかった色をした髪を、肩にかかるくらいまで伸ばした、大人しく控えめな声と雰囲気のある可愛い少女だった。襟の雪を払う唯と目が合うと、彼女は上目遣いに、少し目尻の下がった優しげな瞳を向けてニコッと笑う。可憐という言葉がぴったりの笑顔に、恵介は思わず顔が赤くなってしまう。
「え、えっと。唯ちゃんか。俺は――」
「可児恵介くんでしょ?」
「へっ? なんで知ってるんだ?」
「だって有名だもん。修学旅行の時に集合場所で寝ちゃって、ひとつ遅い新幹線に乗ってきたとか、あの春牧先生の説教の途中に二度寝したとか……の○太を越える昼寝の逸材だって男子が噂してたよ」
「あははは……」
こんなくだらない噂を流すのはきっと純だろうなと思いながら、恵介は苦笑した。
「そ、その話はともかく。この寒いのに何を?」
「お花や植木を雪の当たらない場所に移してたの。雪に埋まると枯れちゃう子もいるから。晴れてた昨日のうちにやれば良かったんだけど、用事があって……」
「そっか、色々大変なんだな」
ハンカチをしまう唯の指先は、冷たさのせいで真っ赤になっている。鉢植えを運び始めて、それなりの時間が経っているのだろう。中身の入った植木鉢は結構な重さがあるから、なかなか大変な労働である。恵介は周りを見てから唯に視線を戻し、訊ねた。
「あれ、唯ちゃん一人でやってるのか? 他に手伝いは?」
「ううん。私が好きでやってることだから。卒業するまではちゃんと見ててあげたいの」
「うーん」
少し考えた後、恵介は足下に置かれた鉢植えを持ち上げた。陶器で出来た植木鉢はずしりと重く、手が痛いほどひんやりとしていた。
「こりゃ大変だ。よく一人でやってたもんだよ」
「えっ……可児くん?」
「恵介でいいよ。で、どこに運ぶ?」
「あ、えっと。下駄箱の隅っこの、光が当たる場所へ」
「オッケー」
恵介は言われたとおり、大きなガラス張りになっている下駄箱の隅へと鉢植えを運ぶ。近くには唯が運んできた鉢植えがいくつか置いてあったので、その隣に並べておいた。
「よいしょっと」
「あ、あの、ありがとう。でもどうして?」
「そりゃまあ……事情も聞いちゃったし、見ておいて自分だけ帰るってのもさ。二人でやった方が早いだろ。雪がまた強くならないうちに終わらせよう」
「うんっ」
三十分ほどかかって、校舎の外に出ていた鉢植えの避難は終わった。額にはうっすらと汗がにじむほどで、一人で作業を続けたらくたくたになってしまっただろう。時計の針は五時半を過ぎ、もうじき真っ暗になってしまう時間になっていた。
「やっぱり手伝っておいて良かったな。一人でこんなのやってたら風邪引いちゃうよ」
「こんなに早く終わるなんて思わなかったから、覚悟はしてたんだけど。本当にありがとうね、恵介くん」
唯の小首を傾げた笑顔に、恵介は思わずドキッとした。普通にしていても唯は可愛いかったが、柔らかな花を思わせる笑顔がなによりも似合う子だと恵介は思った。
「あ、いや……大したことないよ、うん」
気恥ずかしくて、恵介は目線を泳がせて答える。唯は下駄箱の上に置いた自分の鞄を取りに行くと、再び小走りで戻ってきた。
「恵介くんは電車に乗るの?」
「ああ、俺の家は上倉駅の近くだから」
「わあ、そうなんだ。私もあそこで降りるんだよ。よかったら途中まで一緒に行かない? 一人じゃ心細いし、それに……」
「なにかあるのかい?」
「ううん。ただ最近、たまに誰かに見られてる気がするんだけど……きっと思い過ごしよね。さ、早く行きましょ」
二人は並んで歩き出し、学園の前の坂を下りて踏切の手前を曲がり、学園前駅で列車を待った。駅のホームから一望できる宵ヶ浜は、強い風に煽られて生まれた大きな波が、途切れることなく打ち寄せていた。いつもなら広大な水平線と夕焼けの空、海に浮かぶ江ヶ島の見事な景色が見えるのだが、今日はどんよりと暗く曇っていて、そのうえ風が冷たくて仕方がない。隣同士で座ると、唯から花のようないい香りが漂ってきて嬉しかったのだが、駅に着いて扉が開く度に冷たい風が流れ込み、あまりの寒さに唯との会話も「寒いね」「そうだね」といった言葉に終始してしまい、あまり大した会話は出来ずに終わってしまった。
「葉山唯か……可愛い子だったな」
上倉駅で唯と別れた後、恵介は彼女の可憐な笑顔を思い出し、にやけ顔のまま歩き出した。通りすがりの人が恵介を見る度に、ひそひそと小声で話したりしていたのだが、今の恵介にはどこ吹く風である。気が付くと自宅の前に辿り着いており、そこでみゆきとばったり出くわした。彼女はセーターと短いスカートの上に、ファー付きの黒いコートを羽織った私服姿で、これからどこかに出かける所らしかった。
「あっ、恵介じゃん。遅かったねー。教師に居眠りするなーって怒られてた?」
「まあそんなもんだよ。それよりみゆき、お前また出歩くつもりなのか」
「今日は知り合いのバンドのライブがあるんだよね。ウッド・ロックっていうんだけど知ってる? よりによってこんな日にやらなくていいじゃんって思うけど」
「でも行くんだろ」
「まあね」
「止めても無駄なのは分かってるけど、もう少し控えられないのか。卒業まであと少しなんだぞ」
ため息混じりに言う恵介に、みゆきは肩をすくめて首を振る。
「ムリムリ。付き合いってのがあるし、家にいたって退屈だし。恵介が私と遊んでくれてご飯おごってくれてアクセサリー買ってくれるなら考え直すかも」
「あのなあ……」
「分かってるってば。心配してくれるのは嬉しいけど、あんまり口うるさいと春牧みたいにハゲるよ。じゃね」
みゆきはぴらぴらと手を振り、駅の方へ向かって歩いて行ってしまった。彼女の背中を見送りながら、ため息をつき、恵介は明かりの付いた自宅へと入っていった。
翌日には雪は止み、積もった雪も徐々に溶けていった。それから瞬く間に一週間が過ぎ、冬休みがやってきた。この一年間、恵介は密かに進めている事があった。去年の正月に叔父の家へ新年の挨拶に行った時、家の脇に放置されていた古いオートバイを見つけたのである。三十年も昔のナナハン(排気量750ccのこと)で、十年以上も動かしていなかったために、あちこち錆びたり劣化していたが、エンジンの状態は良好であり、車体を修理すれば十分乗れそうだった。この古いバイクに心惹かれた恵介は、叔父に頼み込んで譲ってもらい、全てを自分一人で修理し始めた。バイク店を営む恵介の父も、一人前になる良い機会だからと認めてくれて、見守るだけで余計な口を挟むことはなかった。傷んだパーツを交換するのに必要なお金は夏休みのアルバイトで稼ぎ、錆びたフレームの補強などガレージで不可能な修理は、父のつてで金属加工の町工場に行き、自分で溶接したりもした。こうした地道な努力が実を結び、修理完了まであとわずかという所まで漕ぎ着けることに成功したのである。学校での居眠りが多いのも、夜遅くまでバイクを弄ったり、パソコンなどで情報を集めたりしていたからで、ついでに勉強も夜中にやるという習慣が身についてしまった。そのせいで学校ではひたすら寝てばかりいたのだが、成績は文句を言われないレベルを維持していたし、なんの後ろめたさも感じてはいなかった。機械を弄っている瞬間こそ、恵介にとってなによりの喜びの時間だった。
新年を迎え正月の三が日が過ぎた頃、朝から恵介はガレージにこもっていた。修理と塗装が終わって戻ってきた燃料タンクを取り付け終えると、恵介は軍手を外して額の汗を拭った。これでほとんどの修理は完了し、後は細かい部分を見直していけば、新車のように動き出すはずである。
「さてと、あとはキャブ(燃料噴射装置)の調整だけど……セッティングは地道にやっていくか」
古いオートバイのため、整備書など世間に残っているわけもなく、こればかりは手探りでやっていくしかない。焦っても仕方がないので、たまには出かけて気分転換でもすることに決めた。
「さて、どこに行こうか……」
・上倉駅周辺
・図書館
・王浜市繁華街 ※更新次第、選択した場所のシナリオへとリンクします
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