冬のメモリー

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葉山 唯 編



 上倉駅のロータリーを北に向かうと赤い鳥居があり、その先にある商店街へと進むことが出来る。小さなビルや新旧入り交じった店が建ち並び、いつも観光客でごった返しているのだが、疲れて甘いものが欲しくなった時などには、そこにあるまんじゅう屋へと買い物に出かけていた。恵介は人混みをかきわけて店に立ち寄り、粒あん入りと刻み栗入りまんじゅうをそれぞれ二個ずつと、上倉名物の鴇(とき)サブレーを買った。鴇サブレーは名前の通り、小さな鴇の形をしている定番のおやつでもある。恵介は歩きながらまんじゅうをひとつ口にし、変わらぬ美味しさに舌鼓を打つ。このまんじゅうは皮が薄いのに歯ごたえがあって、後を引かないスッキリした甘みの餡も気に入っていた。恵介は商店街をぶらぶら歩きながら、このまま引き返すのもつまらないと思い、すぐ近くにある有名な神社、鴇岡(ときおか)八幡宮を散歩することにした。正月の三が日も過ぎていたから、参道を行く人の数も減っていて歩きやすかった。樹齢千年を超えるという大銀杏の下を通って石段を登り、本宮にお参りをした後、池のコイやカモに百円で買えるエサをあげてから、自宅へ戻ることにした。八幡宮前の大通りに沿って駅の方へと歩いていると、荷台のある三輪原付オートバイの傍で困り果てた顔をしている唯を見つけた。唯はセーターとデニムパンツという動きやすい服装の上にクリーム色のエプロンを身につけており、エプロンにはフラワー葉山という文字がプリントされていた。

「あれ、唯ちゃんじゃないか」
「あっ、恵介くん」
「その格好は?」
「私の家は花屋なの。ああ、それよりも困っちゃったなあ」
「なにかあったのかい?」
「そこのお店に花を届けて戻ってきたら、急にバイクが動かなくなっちゃって。さっきまでなんともなかったのに。近くにバイク屋さんとか無いよね……どうしよう」
「ふーむ、どこの故障かな」
「エンジンのスイッチを押すと音はするんだけど」
「ちょっと見せてもらうよ」

 恵介は原付の荷台と車体の隙間をのぞき込んで、エンジン回りを調べ始めた。ハンドルに手を伸ばして始動スイッチを押してみると、始動用のモーターは回るが、エンジンはじっと押し黙ったままである。

「ふむ、バッテリーが上がったわけじゃなさそうだなあ」
「わ、分かるの恵介くん?」
「ああ、少しはね」

 もう一度エンジン回りを調べてみると、ガソリンが漏れた跡がわずかに残っており、キャブレターに燃料を通すためのホースが真ん中の部分で切れていた。

(原因はこれか。でもおかしいな)

 ホースの断面は綺麗なもので、劣化して破れたのではこうはならない。

(誰かが切った……?)

 刃物で切断されたような跡を見ながら、恵介はズボンのポケットをまさぐり、小型の工具入れと新品のホースを取り出した。運が良いことに、自宅のガレージでオートバイを弄ってそのまま出て来たおかげで、細かい道具が入れっぱなしになっていたのである。直前にキャブレターを弄っていたのも幸運だった。切れたホースを新品に交換して燃料を通してみると、エンジンは元気な音を出して息を吹き返した。

「ほら、直ったよ」

 立ち上がって唯の方を振り返ると、彼女はぽかーんと目を丸くしていた。

「すごーい、恵介くんって修理が出来るんだ」
「俺の家はバイク屋なんだ。駅の向こうだけどそんなに遠くないし、手に負えなければガレージまで運ぼうかと思ったけど、すぐ直せて良かったよ」
「あっ、そういえば修理代はどれくらい払えばいいの?」
「いいって。ホース付け替えただけだし、お金なんか取らないよ」

 恵介が笑いながら言うと、唯は感激のあまり目を潤ませてぺこりとお辞儀をした。

「うう、私って機械はさっぱりだから」
「それにしても驚いたよ。唯ちゃんが花屋さんだったなんて」
「八幡宮の前の通りを東にちょっと行ったところにあるんだよ。この時期は忙しくて、両親だけじゃ手が回らないから私も配達してるの。免許もちゃんと持ってるよ」
「へえ、偉いんだなあ。うちの親も店やってるんだけどさ、半人前だからって仕事は手伝わせてもらえなくてさ、情けないもんだよ」
「恵介君は立派だよう。ちゃんとバイク直してくれたんだもん。それにしても奇遇だね。私たち、両方とも家がお店やってるなんて」
「ああ、確かにそうかも」
「これからは恵介くんにバイクのことお願いしようかな、ふふ」
「もちろん、いつでも引き受けるよ。お客さんが増えれば親父も喜ぶし」
「うん、よろしくお願いね。って、いけない。もうこんな時間」

 唯は腕時計を見て声を上げ、三輪原付バイクに腰掛けた。小さなヘルメットを被り、恵介を見上げて彼女は言った。

「ありがとう、恵介くん。もしもお花とか必要だったら、私に声かけてね」
「ああ、そうするよ」
「ご入り用の時は、フラワー葉山をよろしくっ。じゃ、またね」

 弾けるような唯の笑顔に、恵介は思わず赤面してしまう。仕事のための表情かも知れないが、彼女の自然で屈託のない表情に強く惹かれる自分を感じていた。

(やっぱり可愛いなあ。なんだろう、この気持ちは)

 機械以外のことで心が躍る――それは恵介にとって、初めての経験だった。唯の姿が見えなくなるまで見送った後、恵介も自宅へ戻ろうと踵を返した。その時、二十メートルほど離れた曲がり角の所に、黒い服を着た男がこちらを見ていることに気が付いた。目が合った瞬間に男は姿を消してしまい、角をのぞき込んでもそれらしい人影はもういなかった。

(なんか睨まれてたような……気のせいか?)

 恵介の頭の中は唯のことで一杯だったので、その男の事はすぐに忘れてしまった。




 冬休みが終わって新学期が始まり、気が付けば一月も終わりが近づいていた。受験の緊張感は高まりつつあり、恵介も教室での居眠りを減らし、ちゃんと授業を受けるようになっていた。受験以外にもちょっとした理由があったのだが、どちらにせよ真面目に勉強をしておこうと思ったのである。全ての授業が終わり、下校時刻を告げるチャイムが鳴り響くと、恵介は下駄箱へ向かう前に、なんとなく三年A組の教室を覗いてみた。

(いないか……もう帰ったのかな)

 教室の中に唯の姿はなく、まばらに残った生徒たちが立ち話をしているだけである。恵介は残念そうに息を吐くと、階段を下りた。一階の廊下を歩いているところで、窓の外に見える学校の中庭で、花壇に向かってしゃがみ込んでいる女子生徒を見つけて恵介は足を止めた。シクラメンやビオラといった、この寒い時期に咲く花の世話をする彼女は、唯に間違いなかった。

(そうか、いつも花壇の手入れしてたんだよな。俺が知らない間もずっと)

 今までそれに気付かなかった事に、恵介は申し訳ない気分になると同時に、唯に対する感情がまたひとつ変わっていくのを感じた。恵介が普段やっている機械いじりは、それをいつ、どう完成させるかは人間の自由だが、花はそうはいかない。植物は自然に成長するし、放っておけば枯れる。花が綺麗に咲くのは、それを世話する人の地道な努力と細やかな気遣いがあってこそであり、花を育てた人間の心が現れているのだなと恵介は気が付いた。

(唯ちゃん……)

 恵介は窓越しに、唯の姿をじっと見つめていた。花を相手にしている唯の表情は穏やかで、枝や葉に触れる優しい手つきからは、花や植物を心から大事にしているのがよく分かる。そんな唯はとても素敵な女性なんだなと、恵介は思った。そしてもっと、彼女のことを知りたいという欲求が恵介の中に芽生えてきた。どんな事で笑い、どんな物が好きなのか――例えばデートに誘うとき、どんな場所を選んだらいいのか。花が好きなら、やはりたくさん花を見られる場所がいい。だとすると公園か植物園か。二人で歩きながら花を見ているうちにいい雰囲気になって、恵介くんって素敵、とか言われて唯が身体をくっつけてきたりしたら、どうしたものか。それはそれで望むところだが、彼女の肌はきっと温かくて柔らかい気がする。それから自然に手を繋いで、もっと一緒にいたいとか言われたりしたら。

「でっへっへっ」

 ブレーキが壊れた妄想に、恵介の顔はすっかりにやけている。窓ガラスに映り込んだ自分の顔を見て、恵介は慌てて咳払いをした。辺りをきょろきょろと見回したが、誰にも見られなかったようで、ほっと胸をなで下ろす。都合の良い妄想と思い込みをしていては、後で恥ずかしい思いをするだけである。もっと現実的に考えてみるとすぐに、唯がどんな男が好みなのかすら分からない事に気が付いた。

(今のままじゃ友達止まりで終わってしまうぞ。もっと仲良くならなくちゃ)

 今日は自分から声を掛け、一緒に帰らないかと誘ってみようと恵介は思った。窓から離れて振り返ったちょうどその時、偶然通りかかった純が恵介を見つけ、ニヤニヤした顔で近づいてきた。

「よっ、恵介。そこから面白いもんが見えるのか?」
「なんだ純か、驚かすなよ。別になんでもない」

 恵介は素早く窓から視線を外して誤魔化す。

「ふーん、そうかそうか。ところで恵介、お前最近眠らずに授業受けてるじゃん。どういう心境の変化だ?」
「そりゃあ三学期だし、受験にも備えておこうかなと」
「ひっひっひ、それだけじゃねーだろ」
「な、なにが?」
「葉山唯か。なかなか可愛い子じゃねーの」

 純の口から彼女の名前が出た途端、恵介の手からカバンが落ちてどさりと音を立てた。窓の外の唯を見ながら、純は助平な笑みを浮かべている。

「な、なんで知ってるんだっ」
「俺の情報力を侮ってもらっちゃー困るぜ。お前のことだから、これから一緒に帰ろうぜとか誘おうとしてたんじゃねーか?」
「い、いいだろ別に。電車の方向が一緒なんだ」
「んーんー、悪いとは言ってないぞ。恵介にも春が来たかと俺は喜んでるのよ」
「本当か?」
「本当本当、マジだって」
「ならいいんだけど」
「ひっひっひ、エッチしたら感想聞かせてくれよ」
「……言うと思った」

 それからしばらく他愛もない話をして、恵介は純と別れた。下駄箱へ向かい靴を履き替え、校舎の外に出ようとした所で、鉢植えの花を運んでいる唯とはち合わせた。いつこっちに来ていたのかと少し驚いたが、唯と知り合った日と同じような状況に少し嬉しくなり、恵介は鉢植えを避けてから唯に話しかけた。

「やあ唯ちゃん。また植木鉢を動かすのかい?」
「あっ、恵介くん。天気予報で今週はずっと晴れるって言ってたから、日当たりの良いところに出しておいてあげようと思って」
「そっか、窮屈なところに置いてたら花も機嫌悪くなっちゃうもんな。本当に花を大事にしてるんだな、唯ちゃんは」
「えへへ、花屋の娘ですから」

 ヒマラヤユキノシタの植木鉢を抱えて、唯は微笑む。ヒマラヤユキノシタという花は寒さに強く、雪の下から顔を覗かせて花を咲かせる事にちなんで名付けられたという。数枚の大きな葉っぱの中心から細長い茎が伸び、その先にピンク色の小さな花をたくさん咲かせる植物である。鮮やかな花びらに飾られた唯の笑顔は、花に負けないくらいに可憐で、単に可愛いという言葉だけでは言い表せないと思った。心から花を大切にしているから、彼女にはこんなにも花が似合うのだろうと。恵介は胸の高鳴りを感じながら、残っている植木鉢を持ち上げた。

「あっ、いいの?」
「もちろん」
「恵介くんてさ……」
「えっ?」
「ううん、なんでもないの。ありがとね。早く終わらせましょ」

 吹雪の日と違って、植木鉢の移動は楽に行えた。大小様々な鉢植えを校舎沿いに並べて置くと、恵介と唯は並んで歩き出した。上倉高校の敷地を出てすぐ、坂の上から見える宵ヶ浜の海は、沈む夕日に照らされて真っ赤に燃えていた。

「最近はお店の様子はどうなんだい?」
「成人式が終わったから、一段落ついた感じかな。もうすぐ受験だし、両親も勉強に集中しなさいって」
「うんうん。あと少しだけど、やれることはやっておかないと」
「私はそんなに難しくないところ選んだから、なんとかなるかなって。恵介くんは大丈夫なの?」
「えーと、努力はしてる……と思う」
「授業中に居眠りとかしちゃダメだよ」
「も、もうしてないよ。本当さ」
「あはは、ごめんごめん。でも恵介くんならきっと志望の大学に入れるよ。機械のことだって詳しいもん」
「ああ、俺もやるだけやってみるよ」

 坂を下りて学園前駅に辿り着くと、ちょうど良いタイミングで江ヶ電の列車がやってきたので、それに乗った。恵介も唯も定期券を持っているので、切符は買わなかった。下校時間の江ヶ電は生徒たちでぎゅうぎゅう詰めになるので、二人はドアの近くに立って揺られていた。家と家との狭い隙間を縫って、電車は上倉駅へと辿り着く。駅を出て分かれようとした時、唯は立ち止まって辺りをきょろきょろと見回し、恵介にそっと耳打ちした。

「あの……恵介くん」
「えっ?」
「あのさ、前に私が言った事を覚えてる? 誰かに見られてる気がするって」
「あ、ああ。そういえば」
「今もね、見られてたの」
「見られてたって、どこから?」
「わかんない。でも、ぞくっとするような視線を感じたの。今までも何度か、後を追いかけられてたみたいで」

 周りを見ても、駅へ出入りする人が多すぎて、誰がこちらを見ているかは分かりそうもない。しかし唯の表情は不安に曇り、いつもの明るい笑顔は消えてしまっている。

「気のせいじゃないんだね?」
「うん」

 冗談ではないと見て取った恵介は、真面目な表情で頷く。

「よし、今日は家まで送るよ。怪しい奴がいないか、見張りながら行こう」
「で、でも……いいの? 家だって反対方向だし」
「大した距離じゃないよ。ちょっとした散歩だと思えばいいさ」
「ごめんね恵介くん。でも、ありがとう」

 周りを気にしながら、恵介は唯を連れて歩き出した。唯をつけ回すストーカーはいないかと注意していたが、それらしい人物は姿を見せなかった。フラワー葉山まで唯を送り届けると、店先で手を振って彼女と別れた。なにも起こらなかった事に安堵しつつ、薄暗くなり始めた路地を歩いていると、曲がり角に差し掛かったところで、急に飛び出してきた棒のようなものに足を取られ、恵介は前のめりに転んでしまった。

「痛てて……」

 顔だけを上げると、黒いコートに黒いズボンの、黒ずくめな小太りの男が立っていた。腫れぼったいまぶたの奥から覗く小さな目で、恵介をじっと見下ろしていたが、

「ふん、なにもないところで転ぶなんてマヌケな奴だ」

 と、蔑みを込めた声で言った。痛みをこらえて恵介が立ち上がってみると、男は恵介の肩くらいまでの身長で、おおよそで見積もっても一六〇センチに届いていない。髪の毛は濡れたワカメのようにぺったりと頭に貼り付いていて、分厚く大きい唇は、紫色で血色が悪い。服装のセンスから二十代くらいの男だろうと思うのだが、猫背で背筋を丸めているのと、腫れぼったいまぶたと神経質そうな目つきのせいで、ひねくれた中年のようにも見える。恵介がブレザーに付いた埃を払って立ち去ろうとすると、男が呼び止めた。

「おい待て」
「えっ?」
「えっ? じゃないだろう。人の通行の邪魔をしておいて、謝罪もせずに帰る気か」
「あ、いや」
「最近のガキはどういう教育を受けてるんだ。常識ってものを知らないのか」
「えーっと」
「もういい。お前のような低脳に関わってるだけ時間の無駄だ。さっさと道を空けろ」

 男は恵介を突き飛ばすように押しのけて歩き出したが、急にぴたりと足を止めて振り返り、言った。

「お前は目障りだ。二度とこの辺をうろうろするんじゃないぞ。ったく、どうして今のガキはこういうクズばかりなんだ――」

 ブツブツと文句を言い続けながら、黒ずくめの小男は去っていった。

(な、なんだったんだあいつは……?)

 呼び止めて勝手に腹を立てた男の言動に、恵介は首を傾げるばかりであった。




 しばらくの間、恵介は唯を自宅まで送り届けることにした。唯を追い回す人物がいないかと毎回目を光らせていたのだが、恵介が一緒にいる時には、ストーカーは姿を現さなかった。念のためにと一緒に帰り続けているうちに、恵介が唯を家まで送り届けるのは習慣になり、お互いの距離が少しずつ縮まっている手応えを、恵介は確かに感じていた。二人の関係が順調に行っていると思った矢先に、その事件は起きた。

「――おい、大変だぞ!」

 二月初めの朝、登校したばかりの恵介に、血相を変えた純が駆け寄ってきた。

「どうしたんだよ、そんなに慌てて」
「ヤバいぜ恵介。葉山がまずいことになった」
「唯ちゃんが? どういうことなんだ」
「ここじゃ詳しく話せねえ。付いて来いよ」

 純に言われるまま、恵介は彼の後に付いていった。純は人気のない校舎の隅までやってくると、携帯電話を取りだしてインターネットを表示し、匿名掲示板のとあるスレッドを表示して恵介に見せた。

「これは?」
「学校裏サイトってやつさ。お前だって聞いた事くらいあんだろ。俺も今まで興味なんかなかったんだけどな」

 掲示板の書き込みには、上倉学園で起こった出来事などがつらつらと書かれている。冬休み前に純と恵介が仕掛けたイタズラのことも書かれていた。純同様に興味が無く、今まで気にも留めていなかったが、なるほど確かに学校裏サイトだと恵介は思った。

「問題なのは、一番新しいスレッドなんだ。正直驚いたぜ」

 純から携帯電話を受け取って画面をのぞき込むと、表示されている内容に恵介は目を疑った。

『上倉学園の生徒が援交してる瞬間を撮影した』

 というスレッドが立てられ、一枚の画像が貼り付けられている。上倉学園の制服を着た女子生徒と中年の男が腕を組み、一緒にラブホテルに入る直前の写真だった。画像の下には、すでに大量の書き込みが続いていた。

『これって誰?』
『3−AのH山じゃね?』
『あ、ホントだH山だ。顔ばっちり写ってんじゃん』
『うっわ、あいつ清純そうなのに騙されたわ』
『相手のオッサン誰よ。俺にもやらせろ』
『コラじゃねぇの?』
『マジかよ引いた。もうあいつの店で花買わねぇ』

 思わず携帯電話を叩き壊しそうになっていた。全身の毛が逆立ち、ぞわぞわした感覚が全身を駆け巡り、恵介は叫ぶ。

「嘘だ、デタラメだこんなの!」
「落ち着けよ恵介。俺だってこんなの信じちゃいねえ。けどよ、どこかのバカがこの書き込みをチクりやがったんだ。ご丁寧に3−Aの担任にな」
「春牧に!?」
「葉山はあのハゲに呼び出されて、生徒指導室に行ってる。春牧以外のセンセーなら、なんとか頼み込むことも出来たんだけど……あの野郎、俺の話なんか聞こうともしねーんだ」
「くそっ!」
「あっ、おい待てよ恵介」

 恵介は走った。どこをどう走ったのか覚えていないくらい、全力で。生徒指導室の前に辿り着き、ドアを開けようとした瞬間、後ろから強い力で引っ張られた。

「待てって恵介、乱入なんてシャレになんねーぞ」
「放してくれ、俺は――!」
「困るのは葉山なんだぞ」
「!?」

 純の一言に脳天を殴られたような気がして、恵介の身体から力が抜けていく。純は恵介の肩に手を置いてゆっくりと首を振った。

「ご、ごめん純。つい頭に血が上って」
「気にすんなって。それより、まだ話は続いてるみたいだな」

 わずかに開いたドアの隙間から、中の様子を覗いてみた。狭い教室の中心にデスクがひとつ置いてあり、机を挟んで唯と春牧が椅子に座って向かい合っている。唯はこちらに背中を向けていて、どんな顔をしているのかは分からない。春牧はふてぶてしい表情で唯を睨み付けており、聞こえてくる声も刺々しかった。

「――もう一度聞くが、なぜこんな事をしたんだね」
「そんな事してないって言ってるじゃないですかっ」
「葉山、お前も強情だな。ここに写ってるのはどう見ても君じゃないか」

 春牧は一枚の写真を手に取り、唯の方へ投げてよこす。写真に写っているのは、掲示板に貼り付けられていた画像をプリントアウトしたものだった。

「だからこれは、なにかの間違いで――!」
「火のないところに煙は立たんというだろう。それとも、これが自分でないと言い切れる証拠があるのかね?」
「そ、それは」
「お前の事は信用してたんだがなあ、葉山。受験を控えてデリケートなこの時期に問題を起こすとは、困ったことをしてくれたもんだ。しかもよりによって援助交際とは。先生もすっかり騙されていたよ」

 忌々しそうに吐き捨て、春牧は唯を睨む。小さな隙間からでも、唯の肩が震えているのが恵介には見えた。

「ち……違います……わ、わた……私じゃない……」
「泣けば済むと思っているのかね。本来なら即退学だが、こんな事が表沙汰になったら学校としても色々と困るんだよ。君一人のために、他の生徒も大変な迷惑を被るだろうねえ。そうならない為の、身の処し方ってものがあると思うんだが……賢い君なら分かるだろう。んん?」
「が、学校をやめろって言うんですか?」
「そんな事は言っていない。だが、どうするかは君次第だ。私としては、少しでも君に良心が残っていることを期待したいんだがね」
「そんな……」
「自分で撒いた種だろう。来週、このことが職員会議にかけられる。それまでに君の方も考えておきなさい」
「……はい」
「話は終わりだ。教室に戻れ」

 唯は無言で立ち上がり、ふらふらとドアの方へ近づいてくる。彼女の顔はすっかり青ざめ、まるで幽霊のように生気が失せていた。思わずドアから後ずさると、唯が視聴覚室から出て来た。

「あ……」
「ゆ、唯ちゃん」

 目が合っても、なんの言葉も出て来ない。こんな時にどんな言葉を言えばいいのか、恵介には分からなかった。わずかな沈黙の後、唯の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、彼女は走り去って行く。恵介は呆然と、後ろ姿を目で追うだけだった。

「こら、ボケッとすんな。はやく追いかけろって」
「あ……ああ!」

 純に背中を思いっきり叩かれ、ようやく足が動いた。

「唯ちゃん!」

 恵介は走った。走って、走って、走って――中庭の隅の、校舎からは死角になって見えない場所で、唯を見つけた。彼女は泣いていた。背を向けたまま、声を押し殺して。少し躊躇ったが、恵介は意を決して唯に話しかけた。

「唯ちゃん」
「……」
「さっきはその、俺も気が動転しててさ。その、なんて言っていいか分からなくて」
「うっうっ……け、恵介くん」

 唯はようやく返事をした。嗚咽を必死にこらえ、大きな声を出すまいと必死に耐えているのが、恵介にも痛いほど伝わってくる。

「や、やってない……あんなことやってないのに……先生、信じてくれなくて」

 ゆっくりと振り返る彼女の顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。止まらない涙を、彼女は必死に手で拭っていた。

「ね、ねえ、どうして? 私、なにか悪い事したのかなあ?」
「そんなわけない。君がこんな事するはずがないって、みんな知ってるよ」
「でもそれじゃ……あの写真……どうしてあんなものが……ひっく」
「分からない。けど」

 恵介は唯の両肩をしっかりと掴み、真っ直ぐに彼女の目を見つめて言った。

「俺がなんとかする。君の無実を証明してみせるよ」
「うう……恵介くん」
「大丈夫さ。頼りになる仲間だっているし、きっと上手く行くさ」
「け、恵介くん……ありがと……ううっ……」

 両手で顔を覆い、唯は泣きじゃくった。彼女の肩は小さくて、おびえた子犬のようにずっと震えていた。

(絶対に許さないぞ……!)

 人生で初めて感じる、はらわたが煮えくりかえるような怒りだった。




 昼休み、三年C組の教室に唯の姿があった。これからのことを打ち合わせるために、恵介が呼んだのである。唯が窓際の席に座り、前の席に恵介、その隣に純が立ち、事情を聞いた光太郎とはるかも唯の隣に立って壁を作っていた。掲示板の書き込みを知って、チラチラと唯を見ながら噂する連中もいたが、光太郎が「話し合い」をしに行くと、彼らは教室から出て行ってしまい、それを見ていた他の生徒たちもこちらを見なくなった。光太郎が戻ってくると、恵介は咳払いをして口を開いた。

「みんな聞いてくれ。まず最初に、あの写真が偽物って事を証明しなくちゃいけない」

 その場にいた全員が頷く。異議がないのを確かめ、恵介は続ける。

「それで学校のパソコンで調べてみたんだけど、合成写真かどうかを判断するソフトは、一般には出回ってないらしい。警察とか企業とか、そういうところでしか使ってないみたいなんだ」
「てことは、警察に頼むのか?」

 と、純が聞き返す。

「ああ、ただのイタズラで済む問題じゃないからな。うちの店の客で信用できる刑事さんがいるから、その人に分析を頼もうと思ってる。写真がインチキだと証明されれば、春牧を黙らせることが出来るはずさ」
「それが無難だな。けどよ、全部警察に任せっきりなんてねーよなあ」

 白い歯を見せて笑いながら、純は訊いた。真っ直ぐに彼を見つめ返し、恵介は頷いた。

「ああ。俺たちは俺たちで犯人を探す。出来れば警察より先に見つけ出して、詫びを入れさせてやりたいよ」
「おっし、そう来なくっちゃな。久々に腕が鳴るぜ」

 張り切って肩を回す純の隣で、ずっと話を聞いていた光太郎が口を開いた。

「なあ葉山。写真を載っけた奴は、わざわざ写真を合成してまでお前をハメようとしたわけだ。ということは、そいつは葉山になにかしら恨みを持ってるって事だよな」

 確かにそうだ、と皆が頷いたが、唯にはそんな心当たりは無いと言うし、その言葉はおそらく事実だろうと誰もが思った。他人から見ても、彼女が人の恨みを買うような人間ではなかったからだ。

「葉山に責任が無いにせよ、必ず原因があると俺は思うぜ。例えば逆恨みとかな。なにか心当たりはないのか?」

 光太郎の指摘は的を射ていた。恵介は両腕を組み、記憶を辿り始める。しばらくして数日前の出来事を思いだし、恵介はあっと声を上げた。クラス中の視線を集めてしまい、恵介は他の連中に聞こえないように、みんなの顔を集めて小声で話し始めた。

「思い出したよ、実は――」

 唯をつけ回すストーカーらしき人物がいたこと、恵介が唯を自宅まで送るようになってからは気配が消えたことなどを、恵介は説明した。唯に悪意を持つ人物がいるとすれば、そのストーカー以外に考えられない。

「そりゃあ確かに怪しいぜ。タイミング的にも、葉山への粘着を邪魔された腹いせの線が濃そうだよな。しかし、まさか葉山がストーカーに遭ってたとはなあ。だぁーっ、俺は情報の量と速さが売りなのによー」

 この話は純も初耳だったらしく、情報の速さを身の上としている彼は、がりがりと頭を掻きながらメモを取っていた。唯は親身に聞いてくれる彼らを見て、申し訳なさそうに頭を下げた。

「今までは見られてるだけで害はなかったし、恵介くんのおかげでいなくなったと思ったから……ごめんなさい、もっと早く誰かに相談しておけば良かった」

 沈んだ声で謝る唯の手を握り、恵介は励ますように言った。

「大丈夫だよ唯ちゃん。俺たちが付いてる」

 うんうんと頷き、純も明るい口調で続く。

「任せとけって葉山。俺たちの仲間にふざけた真似したヤローがどうなるか、たっぷり思い知らせてやるぜ。なあ光太郎」
「ああ、今回の事は久しぶりに頭に来たからな。仮にそいつが写真の件と無関係だったとしても、バカが一人減るだけだ」

 光太郎が力強く頷くと、傍らにいたはるかも唯に近づいて、彼女を安心させるように微笑んだ。

「他の人がなんと言おうと、私は葉山さんの味方だからね。知ってるんだよ、あなたが学校の花壇や植木鉢にお水あげたり手入れしてたの。あんな写真、私は絶対に信じないから」
「和泉さん……私、なんてお礼言ったらいいのか」
「いいんだよう、お礼なんて。困った時はお互い様だもんね。光太郎や純くんに任せておけば、きっと解決してくれるよ。もちろん、葉山さんのナイト君もね」
「や、やだ。恵介くんはそんなんじゃ……」
「おやぁ〜? 私は可児くんのことだなんて言ってないわよー?」
「も、もう、和泉さんたら」

 唯は顔を真っ赤にしてうつむいてしまったが、話を始める前に比べてずいぶん安心しているようだった。今は女同士でいる方が、彼女も気持ちが安らぐだろう。唯の事はしばらくはるかに任せることにして、恵介は純と光太郎に訊ねた。

「で、どうしようか。ストーカーを捜すにしても、最近は姿を見せないし」

 恵介の質問に答えたのは、純だった。

「出て来ないなら釣っちまえ。いいか、俺の作戦はこうだ。まずは恵介と葉山が一緒に帰るのを止めて、ストーカーをおびき出すんだよ。最近はおあずけ食ってたから、のこのこ出てくるだろうぜ。万が一に備えて、ツラが割れてる恵介の代わりに光太郎を護衛に付けておく。んで、俺は周りの怪しい連中や、ストーカーが隠れそうな物陰をしらみつぶしに調べて、奴の尻尾を掴む。情報屋もっちーの名にかけて、必ず野郎を表に引きずり出してやるぜ」

 普段のおちゃらけた態度からは想像出来ない純の作戦に、光太郎やはるかは「おお、珍しい」と口を揃えて感心していたが、恵介は一人浮かない顔をしていた。

「話はわかったけど、俺はどうすれば? 一人だけなにもせずに待ってるなんて無いよな」
「おいおい慌てるなって。司令塔はどっしり構えてるもんだぜ」
「しかし……」
「焦っても獲物は出てこねーってば。まずは知り合いの刑事さんに話を通しておいてくれよ。こっちで奴の尻尾を掴んだら、お前にも動いてもらうから」

 それに、と付け加えて、純は恵介の耳元で囁いた。

「葉山のそばにいてやれるのはお前しかいねーだろ。ちゃんと彼女を支えてやれよ」
「純……」
「ひっひっひ、気にすんなって。礼は後でたーっぷり返してもらうからよ」

 そう言いながらも悪意のない純の笑顔に、恵介は仲間のありがたみを深く感じていた。タイムリミットはあと一週間しかなかったが、自分たちならきっと犯人を見つけ出せる――そう信じて、恵介たちは唯の無実を晴らすために動き出した。




 三日が過ぎたが、ストーカーらしき人物はまだ見つからなかった。放課後、自宅へ向かって一人で歩く恵介は、唯のいない帰り道がこんなにも味気ないものかとしみじみ感じていた。唯の事は心配だが、今は純と光太郎に任せるより他にない。直接役に立てない歯がゆさを感じながら自宅に着くと、制服を脱いで作業用のツナギに着替え、時間つぶしのためにガレージでバイクの整備をしていた。一時間ほど経った頃、母が電話が入ったと呼びに来た。子機を受け取って返事をすると、相手は写真の分析を頼んだ刑事だった。

「やあ恵坊。分析の結果が出たんで電話したんだ。結果から言うと、ありゃ紛れもなく合成写真だ」
「本当ですか! やっぱり思った通りだったんだ」
「こいつは立派な名誉毀損だな。掲示板に書き込みをした人物の特定も急がせているよ」
「色々とありがとうございます。どうかよろしくお願いします」
「ああ。被害者は君の友達らしいが、犯人憎しで無茶をするんじゃないぞ」
「はい、わかってます」
「進展があったら連絡するよ。それまで騒ぎを起こさないようにな」
「はい」

 電話を切ると、恵介はジーンズと黒いセーターに着替えて、濃い茶色のダウンジャケットを羽織り、階段を下りて家を出た。あの写真が偽物だったことを、電話ではなくて唯に直接伝えたかったからだ。外はすっかり暗くなっていたが、駅の周辺を行き交う人の流れはまだ途切れていない。上倉駅の前を通り過ぎ、八幡宮の交差点を右に曲がって真っ直ぐ進むと、まだフラワー葉山の店の明かりは点いていた。店番をしていた唯の母親に挨拶をすると、呼ばれた唯が奥から顔を出した。おおらかで優しそうな唯の母に促され、恵介は店の中で唯に伝えた。

「あの写真は偽物だったよ。警察でちゃんと解析したから間違いない」
「ほ、本当!?」
「ああ、本当さ。証拠のデータを見せれば、春牧だって納得するよ」
「よかったぁ……本当に……よかった」

 たくさんの花に囲まれながら、唯は両手で顔を押さえてうつむいた。しばらくして顔を上げた唯にハンカチを貸してやり、恵介は言った。

「ひとまず危機は避けられたけど、ストーカーを見つけ出さなきゃ、また同じ事が起こるかも知れない。必ず捕まえるから、もう少しだけ辛抱しててくれよ」
「うん。私……信じてるからね」

 憑き物が落ちたように安堵する唯を見て、恵介も少し胸のつかえが取れた気がした。唯の瞳は涙で潤んでいたが、すっかり消えてしまっていた明るい光が戻っていた。本当はもっと彼女と喋りたかったが、今はそっとしてやるのが一番だと思い、別れの挨拶をしようとしたその時だった。

「おい店員。いつまでそいつと喋ってるんだ」

 背後から声がして振り返ると、小太りで黒ずくめの格好をした男が、店先からこっちを睨むようにして立っていた。猫背で腫れぼったい目と分厚い唇の、いつぞやに道ばたで出会ったあの男であった。

「この店は常連をないがしろにして、一見さんばかりを相手にするのか」

 独り言のようにボソボソと呟く男に、唯の母が愛想笑いをして近づいて行く。

「気が付かなくてすみません。今日はどんな花がご入り用でしょうか」

 黒ずくめの男は手近な花を指して質問していたが、恵介や唯の方を何度もチラチラと見ては、まとわりつくような視線を送りつけてくる。恵介は唯を呼ぶと、花のことを聞くフリをしながらそっと訊ねた。

「あの黒い服の人ってさ、唯ちゃんは知ってるかい?」
「うん、古田さんってお客さん。去年の秋頃からよく店に来るようになったの。買わずに帰ることも多いけど」
「どんな人なんだい?」
「あんまりよく知らないの。時々花の説明してくれって言われて説明するんだけど、いつも返事がなくて、それで終わりとか。ちょっと変わってる人なのかも」
「ふーん……」

 ストーカー捜しのこともあり、恵介は古田という男の顔を覚えておくことにした。もっとも、忘れろと言われても忘れられない顔つきではあったが。唯に別れを告げて花屋を出ようとすると、またしても恵介は古田に呼び止められた。

「おい待て」
「えっ」
「お前はなにを考えて生きているんだ。俺が言ったことを忘れやがって」
「はあ……?」
「ふん、せっかく忠告してやったのに無視かよ。おまけにこの店にまで現れやがって」
「いやあの、用があったから寄っただけで。そんな風に言われる筋合いは無いと思うけど」
「いいか、俺はお前なんかよりずっと前からこの店に通ってる常連だぞ。その俺を差し置いて大きな顔をするな低脳が」

 古田は一人でぶつぶつと言い続け、勝手に腹を立てている状態であった。この困った相手をどうしたものかと考えていると、唯が恵介の隣にやってきて、

「あの、責任は至らなかった私たちにありますから。どうかそのくらいで許してあげてください」

 と、ぺこりと頭を下げた。

「ったく、店員も店員だ。わざわざ通ってやってる俺をないがしろにして、こんなガキの相手ばかりしやがって。お前は客の気持ちを考えたことがあるのか」
「す、すみません」
「商売を甘く考えてるんじゃないだろうな。普通だったら客を一人失うところなんだぞ。分かってるのか」

 古田の横柄で尊大な言い方に、恵介は無性に腹が立って仕方がなかった。割って入って止めようとも思ったが、生徒指導室の前で純に言われた言葉が脳裏に蘇り、ぐっと我慢して踏み止まった。すると再び唯の母がやってきて、恵介と唯の前に立って深々と頭を下げた。

「娘が至らず申し訳ありません。よく言い聞かせますので」

 そう言いつつ、唯の母は片手を背中側に回して手先を振り、今のうちに帰りなさいという仕草をした。恵介は小さく頭を下げて感謝すると、後ろ髪を引かれる思いでフラワー葉山を後にしたのだった。

 上倉駅の前を通りかかった所で、紺色のピーコートとお揃いのニット帽を被り、薄いグレーのズボンとブラウンのワークブーツを履いた純を見つけて声を掛けた。

「こんな時間まで調べ回ってたのか?」
「おお、恵介じゃねーの。駅の周りから葉山の家の近所まで、怪しい場所や人間は片っ端から撮影してるんだけどな。おかげでカメラのメモリーカードが一枚満タンになっちまったぜ、わっはっは」
「そうだ純、伝えなきゃいけない事があるんだ」

 恵介は、写真の分析結果が出たことと、さっきであった古田という男について純に伝えた。

「やったな恵介! これで葉山もひと安心だろーぜ。で、その古田とかいう奴だけどよ、話聞く限りじゃ確かに怪しいよなあ。てか怪しすぎだろ」
「変な男だったからなあ。でも怪しいだけじゃ手を出せないし」
「これは俺のカンだけどよ、葉山をハメた奴がまた動きそうな気がするんだよ。あんな姑息なヤローが、一度くらいで嫌がらせを止めるとは思えないからな」
「そ、そうだな」
「用心しろよ恵介、奴はまた仕掛けてくるぜ」
「ああ、ありがとう。純も気をつけてくれよ」
「上倉リトルリーグの盗塁王をナメんなよ。逃げ足で俺にかなう奴はいねーって。俺はもうちょっとそこら辺調べてから帰るわ」

 純の足の速さはよく知っているから、きっと平気だろうと恵介は思った。駅の自動販売機で缶コーヒーを買って彼に手渡すと、恵介と純はそれぞれの方向へと別れた。歩いて自宅へ向かいながら、恵介は唯の事を考えていた。写真が偽物だと伝えるまでの間、彼女の暗く重い表情は見ているだけでもつらかった。一日でも早く犯人を捕まえ、いつものように唯が笑える日々を取り戻したい。そのためならどんなことでもやろうと、恵介は気持ちを新たにする。だがその翌日、純の悪い予感は的中することになるのであった。




 早朝の空気はきんと冷えて冷たい。マフラーをしっかりと巻いて、白い息を吐きながら登校した恵介は、校舎の入り口に生徒たちが集まっているのを見つけ、近づいてみた。

「ああっ!」

 人混みの向こうを覗くと、唯と一緒に並べたたくさんの植木鉢が、全て割られていた。中の土は周囲に飛び散り、植えてあった花や植物は無残に踏みつぶされていた。

「なんて事だ……」

 生徒を押しのけて植木鉢に近づくと、その場にしゃがんで片付けをする女子生徒がいた。唯だった。彼女は振り返らず黙々と土をかき集め、あたりに散った花びらや葉をその上に乗せている。

「ゆ、唯ちゃん」

 彼女にかける言葉が見つからなかった。その代わり、全身の毛が逆立つほどの煮えたぎる感情が、身体の奥から沸き上がってくる。

(くそ、よくもこんな……!)

 誰がやったのかは分かっている。唯の合成写真を作り、彼女を傷つけた奴だ。抑えがたい怒りが全身を駆け巡るのを感じながら、恵介は奥歯を噛みしめてそれをこらえた。唯の隣で腰を下ろし、恵介も飛び散った破片や土を集め始めた。しばらくの間、唯は口を開かなかったが、やがて涙に喉を詰まらせた声で、彼女は言った。

「どうしてかなあ……花はなにも悪くないのに。恵介くん、私悔しい……悔しいよ。こんなのひどいよ……」

 垂れ下がった髪で唯の表情は見えなかったが、大粒の涙がこぼれ落ちて地面を濡らしていく。もう限界だと思った。もしも目の前に犯人がいたら、八つ裂きにしてやりたいと思った。やり場のない怒りを紛らわすように、恵介は土と破片をかき集め、踏みにじられた花をそっと上に置く。ふと見上げた窓に映る自分の顔は、まるで別人のように強張っていた。やがて純と光太郎、はるかが揃って登校してくると、彼らもこの惨状を見て驚き、すぐに片付けを手伝ってくれた。それだけが唯一の救いだったと、恵介は彼らに深く感謝した。植木鉢の片付けが終わった後、恵介は唯を連れて職員室へ行き、春牧の座るデスクへ向かった。写真が合成であると証明されたことを告げ、唯に退学を促したことを取り消すよう恵介は言った。春牧は発言を取り消しはしたが、謝罪の言葉は最後まで口にしなかった。

(とにかく春牧は黙らせたんだ。後は犯人を早く見つけないと)

 相手が直接的な行動に出て来たことは、唯に危険が近づいている事を意味している。昼休みに純が撮影した写真を確認していると、見覚えのある場所と人物が写っている写真が数枚あることに気が付いた。写真の日付を見ると昨日だけでなく、一昨日もさらにその前日も、同じ場所で同じ人物が写っている。

「これ……唯ちゃんの家の近くだよな」
「ああ、お前と別れて一時間後くらいに撮った写真だな」
「隅っこに写ってる黒い服の。こいつが古田って奴だよ」
「やっぱりか。花屋の周りを見張ってたら、ヒキガエルみてーなツラのやつが店の周りを行ったり来たりしててよ。店が閉まった後でもやってきて、じーっと二階を見上げたりしてたんだよ。あからさまに怪しすぎて逆に怪しくないんじゃねーか? とか思っちまったよ」
「あれから一時間も店の周りにいたっていうのか……」
「暇で散歩してたってんじゃねえな。だとすると、ここにいたのも納得だぜ」

 そう言って、純は上倉学園の前の道路を撮影した写真を出した。写真には駅と反対方向の坂道から上倉学園の方を見ている、黒ずくめの古田の姿が写っていた。日付は三日前となっている。

「この野郎、学校までやってきて葉山を見張ってたとしか思えねえ。いよいよ恵介に動いてもらう時が来たようだな」
「よ、よし。どんな作戦で行くつもりなんだ?」
「そうだな……とりあえずこいつを預けとくか」

 と、純は平べったくて丸いキーホルダーと、万年筆くらいの大きさの銀色で細長い機械を恵介に手渡す。

「これは?」
「ま、お守りみてーなもんだ。情報屋もっちーの七つ道具だけどよ、いざって時のために肌身離さずもっとけ」
「七つ道具?」
「おう、他にも双眼鏡とか針金とか護身用の硬球とか……」
「硬球でどう身を守るんだよ」
「おいおい恵介さん、俺の投球コントロールは一級品よ? って、んなこたぁどうでもいいっつーの。そのキーホルダーは葉山に渡しておいてくれ。効果と使い方説明すっから良く聞いとけよ」

 手短に機械の使い方を説明し、さらに純は続けた。

「今度はこっちから奴を引っかけてやるんだ。本当は確実な証拠を集めて追い詰めたかったけど、時間がねぇ。覚悟はいいな恵介」
「ああ、唯ちゃんの安全のためだ。なんだってやるさ」
「うーんいい返事だねぇ。純くん惚れそう」
「やめろ気持ち悪い」
「即答かよ。まあいいや、ほいじゃ光太郎も呼んで、段取りを始めるとしますか」

 はるかと並んでイチゴ牛乳とサンドイッチを食べている光太郎を呼び、最後の打ち合わせをするのだった。

 放課後、空にはどんよりと灰色の雲が広がって冷たい風が吹き、天気予報によると、日が暮れてから雪が降るらしい。恵介は唯と一緒に学校の裏側にある雑木林を訪れ、踏み潰されてしまった花を土に埋めて弔っていた。まだ息を吹き返すかも知れない花は花壇に植え替えておいたが、その数はわずかだった。スコップを手に、柔らかな手応えの土に穴を掘ると、中にそっと花を横たえる。茎が折れ、葉もちぎれた草花の姿は痛ましいもので、上から土をかぶせた後、恵介と唯は両手を合わせて目を伏せた。

「ごめんね、手伝ってもらっちゃって。花にここまでするなんておかしいって思われるかも知れないけど」
「ずっと世話してきたんじゃないか。おかしくなんかないよ」
「恵介くんやみんながいてくれて良かった。私一人じゃ写真の事も、今回の事も耐えられなかった。どうしていいか分からなくて、学校も辞めてたと思う。だから……」
「いいんだよ。俺たちは当たり前のことをしてるだけさ。それに唯ちゃんは俺が――」
「えっ?」
「いっ、いや。なんでもない。それより、渡す物があるんだ」

 恵介は純から預かったキーホルダーを唯に手渡し、

「もしもストーカーに襲われたら、真ん中のボタンを押すんだ。大きな音が出る」
「防犯ブザー?」
「ストーカーのやり方が直接的になってきただろ。万が一もあるし、用心に越したことはないからさ。でも、そうなる前に奴を捕まえてみせるよ」
「あの、無茶はしないでね。私のことでみんなが危ない目に遭ったら……」
「大丈夫さ。純や坂井は強いんだ。あんな卑怯な奴には負けないよ。俺はケンカとかは嫌いだし自信ないけど、逃げ足なら純のイタズラに付き合って鍛えてるからさ」

 恵介が笑ってみせると、唯もつられて笑い出す。合成写真の事件以来、初めて彼女が見せた笑顔だった。

「はは、よかった。やっぱり唯ちゃんは笑ってる方が可愛いな」
「や、やだ恵介くんったら」
「はっ……いっ、いやあの、思わず口が」
「ふふ、でもちょっぴり嬉しいな」

 唯のはにかんだ微笑みが生んだ、わずかな無言。ふと、唯が近づいてきて彼女の姿が大きくなったかと思うと、頬に温かくて柔らかいものが触れた。

「ゆ、唯ちゃ……」
「いつもありがとう、恵介くん。頼りにしてるからね」

 唯が離れる間際、かすかに鼻先に触れた髪からは花の匂いがした。くるりと背を向け、唯は小走りで去っていく。恵介は顔を真っ赤にして、棒のように固まっていた。この行為をどう受け止めたらいいのか、驚きと嬉しさと恥ずかしさがごちゃ混ぜになって、恵介はしばらく機能停止したまま動かなかった。




 日が暮れてから、恵介は純から借りたコートとチノパンに着替え、ニット帽とマスクで変装し、物陰からフラワー葉山の周囲を注意深く見張っていた。別の場所で監視している純や光太郎とは携帯電話で連絡を取り、なにかが起こればすぐに飛び出せるようにしてある。一時間ほど経つと、天気予報のとおりに雪が降り始め、指先が痺れるほどに空気が冷たくなってきた。こんな日にはストーカーも出歩かないだろうと思ったのだが、純曰く「こんな天気だからこそ奴は動く」と語る。近くの自動販売機でホットの缶コーヒーを買い、そのぬくもりで指先を温めながら、ストーカーと思われる人物――古田の出現を待った。腕時計の針が午後七時四十五分を指す頃には、フラワー葉山でも閉店の準備が始まっていた。店先に唯と彼女の母が見えていたのだが、母が店の奥に姿を消して唯一人になった時、黒い人影が現れて店に近づいていくのが見えた。

(来た……!)

 恵介からは店までは二十メートルくらいの距離があり、顔まではさすがに見えないが、上下共に黒い服に、猫背で小太りな体格で、それが古田であるとすぐに分かった。恵介は上着のポケットに突っ込んでいた両手を出して、気付かれないよう、ゆっくりと近づきながら様子をうかがっていると、初めのうち古田は唯になにか話しかけていたようだが、やがてキョロキョロと周囲を気にした後、突然唯の腕を掴んで強引に引っ張った。唯が声を上げても古田は手を放そうとせず、よく分からない言葉を口走るばかりである。

「唯ちゃん!」

 気付いたときには身体が勝手に動いて、矢のように飛び出していた。恵介の顔を見た途端、唯はなにかを思い出したようにエプロンのポケットに手を入れた。すると大音量の警報音が鳴り響き、古田は怯んで手を放す。さらに駆け寄ってくる恵介に気付いて、慌てて逃げ出したが、

「おーっと。そこまでだぜ」

 反対側から出て来た純と光太郎が、古田の逃げ道を塞いでいた。純はいつも通りのニット帽と紺のピーコート姿、光太郎は文字やデザインイラストのワッペンが貼られた、袖が白い黒のスタジャンと、色が淡くこなれたジーンズに白黒のスニーカーを履いている。

「あーあ、困るねえ。その女の子は俺たちの大事な仲間でさ。あんた今、なにしようとしてたんだ?」

 と、純が前に出る。古田の顔が青くなっていたのは、寒さのせいだけではないだろう。立ち止まると雪が頭の上に降り積もって、古田のべたべたした髪の毛はゴミがたくさんくっついているように見えた。恵介は唯を自分の後ろに避難させ、古田の動きから目を離さないように身構える。

「ふ、ふん。俺はなにもしていないぞ。お前らこそなんなんだ。ぞろぞろ出て来て人を取り囲むなんて、神経を疑うぞ」

 この期に及んで、古田はシラを切るつもりらしい。

「道を空けろ。俺は帰る」

 平静を装い、強引に立ち去ろうとする古田だが、純や恵介が道を空けるはずもない。

「ど、どういうつもりだ」
「そりゃこっちのセリフだっつーの。なあ葉山、さっきこいつに腕を掴まれてたよな?」

 純が訊ねると、唯は恵介の後ろでこくりと頷く。

「本人がああ言ってんだけど、そこらへんどーよ」
「そ、その女がウソをついてるんだ。大体、そんな証拠がどこにある」

 純も光太郎も、そして恵介も。呆れて声も出なかった。同じ質問を続けても無駄だと悟った恵介は、別の事を古田に訊ねた。

「ひとつ聞きたい。あんたはこの花屋の常連だって自分で言ってたよな」
「そうだ。だがそれも今日までだ。二度とこんな店に来るか」
「……実は今朝、唯ちゃんが大事にしてた鉢植えの花が全部割られてさ。それで俺たちは犯人を捜してるんだ。常連のあんたなら、なにか心当たりがあるんじゃないかと思って」
「ふ、ふん。そんなの知るか」

 古田の表情から目を離さずに、恵介は続けた。

「実は、現場の近くでウロウロする黒ずくめの人影を見たって人がいてさ。そう、ちょうどあんたみたいにね。背格好も小太りで猫背だって言ってたな」
「お、俺を疑うのか? 言いがかりもいいところだ」
「だからさ、気付いた事があれば教えて欲しいだけだよ。もちろん、あんたが犯人って可能性もあるけど――」
「知らないと言ってるだろう! なんで俺がいちいち高校の植木鉢なんか壊さなきゃいけないんだ!」

 叫んだ後で、古田は我に返る。純も光太郎も、口の端を持ち上げて笑みを浮かべていた。恵介は拳を握り締め、射抜くような視線を向けて問う。

「なぜ植木鉢が高校にあったものだって知ってるんだ。場所のことなんて一言も喋ってないぞ」
「あ……ぐぐ……!」

 自ら墓穴を掘ったことに気づき、古田は青白い唇を噛み締めながら後ずさった。

「唯ちゃんをつけ回したのも、学校裏サイトに合成写真を貼り付けたのもお前だな!」
「う、うるさいっ! うるさいうるさいうるさいうるさ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 古田は耳が痛くなるほどの奇声を上げ、上着のポケットに手を突っ込んでナイフを取り出し、それをめちゃくちゃに振り回した。

「うわっ」

 古田は恵介の方にナイフを突き出し、血走った目を向けて叫ぶ。

「お、俺は悪くない……全部その女が悪いんだ! は、初めて店に寄ったあの日、俺に笑いかけたくせに……そ、それでずっと通ってたのに、こんなガキの相手ばかりしやがって。お、お前らに居場所がなくなった人間の気持ちが分かるのか」
「なにを言っているんだ? ぜんぜん分からないぞ」
「ひひ、これは罰だ。俺の気持ちを踏みにじった報いだ。ちょっと可愛いからってちやほやされて、いい気になってるからこうなるんだ」
「ふ、ふざけるな! お前は自分勝手な理屈で、唯ちゃんを傷つけただけじゃないか!」
「なぜ俺が報われない? 俺はいつもその女を見てた。邪魔な障害は全部取り除く努力だってした。配達の原付も、学校も、植木も、全部消えれば俺を見てくれるはずだった……なのにどうだ? ますますこのガキばかり頼りにしやがって」
「お、お前……」
「世の中間違ってる。俺は誰にも相手にされず、寂しく消えていけというのか? 俺がこんなにも苦しい思いをしているのに、他の奴らがのうのうと過ごしてていいのか? 違う……間違ってるんだ。全部、なにもかもが」

 怒りを通り越して、もはやバカバカしくなってきた。しかし今は、目の前の凶器からなんとしても唯を守らなくてはならないのである。古田がぶつぶつと呟いている隙に、後ろで隠れている唯を見た。彼女は背中にしがみつくようにして、ぎゅっと目を閉じていた。

「逃げろ唯ちゃん。こいつは俺が止めるから」
「だ、だけど……恵介くんはどうなるの?」
「話し合いが通じる状態じゃない。分かるだろ、本当に危ないんだ」
「で、でも私……」
「早く!」

 怒鳴るように言ってしまったが、それは恵介にも余裕がなかったからである。初めて感じる危機と恐怖に身体は強張り、心臓の音がけたたましく鳴り響いて聞こえるほど緊張していた。唯が恵介から遠ざかるのとほぼ同時に、古田がナイフを振り上げた。

「な、なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。なんで俺が――!」

 ナイフを目で追う事は出来たが、身体が思うように動かない。完全に出遅れてしまった。

(ダ、ダメか……!)

 そう覚悟した瞬間、ナイフを持つ古田の手に、白く丸い物が飛んできて直撃した。

「がっ……!?」
「おっしゃストライク! 見たか俺のピッチングをよー」

 白く丸い物の正体は、純が投げた硬球だった。手の甲に硬球がめり込み、古田は手を押さえ、ナイフを地面に落とす。そこへ間髪入れずに光太郎が突進し、足元のナイフを遠くに蹴り飛ばすと、古田の出っ張った腹部にパンチを叩き込み、続けざま襟を掴んで顔面を力いっぱい殴りつけた。

「ぐえっ」

 古田は後ろによろめいてから、地面に両膝を付いて土下座をするようにうずくまる。

「どうしようもないバカ野郎だなこいつは。どうする可児、お前もやるか?」

 光太郎の問いに、恵介は首を横に振る。

「やめておく。それよりも……今までの事を唯ちゃんに謝ってくれ」

 うずくまる古田に目を下ろすと、古田は腹を押さえたまま身体を小刻みに震わせて笑い始めた。

「くく……ひひひ、謝る? 俺が謝る? これだから低脳なガキは。いいか、俺はなにもしてない。無実だ。どこにもそんな証拠はないだろうが、ええ? お前ら四人が口裏を合わせて、俺を陥れたんだ。俺はなにもしてないのに、四人によってたかって暴行されたんだ。くくく、裁かれるのはお前らだ、バカめ!」

 涙と鼻水にまみれた顔を上げて、古田は下品な笑みを浮かべた。あまりに醜い態度に、ほんのわずかでも謝罪を期待した自分が間違っていた。そう思いながら、恵介は服のポケットから細長い銀色の機械を取り出し、端に付いているスイッチを押す。機械からは、今までの会話の一部始終が再生された。

「あ、あああっ!」
「……続きは警察で喋ってくれないか。もう声も聞きたくないんだ」

 それ以上の言葉は無かった。力なくうなだれる古田の上に、雪が降り積もる。恵介は身体が鉛のように重くなるのを感じながら、その場に立ち尽くしていた。




 一週間ほどが過ぎ、二月も半ばに入る頃には、古田の逮捕騒動もようやく落ち着いてきた。古田の自宅のパソコンからは、写真を合成した証拠の他にも、唯の姿を撮影した大量の写真が押収され、容疑は固まった。裁判になったら、出来るだけ重い刑で反省させてやると知人の刑事が言っていた。警察に所在が知れた学校裏サイトも閉鎖され、唯をチラチラと見る連中もいなくなり、少しずつ穏やかな日常が戻りつつあった。
 二月十四日は快晴の日曜日であった。世間はバレンタインデーで浮かれムードだったが、恵介はガレージにこもってオートバイ修理の仕上げを続け、全てが終わった頃には午後一時を回っていた。昼食は用意してあったサンドイッチで済ませたが、これで十分だった。

「よし、これでアイドリングも安定するはずだ」

 エンジンを始動させ、軽くスロットルを回す。獣の咆吼に似た音と共に、十年前に時間を止めたの心臓が目を覚ましたのである。バイク乗りはオートバイを「鉄の馬」と表現する事があるが、まさにその通りだと恵介は思った。メッキ仕上げで銀色に輝くハンドル。錆を取り、鮮やかな赤で塗装した燃料タンク。骨格の如き黒鋼のフレームに抱えられた、つや消し銀の空冷エンジンから、滑らかなカーブを描いて車体の後ろへと伸びていく、ぴかぴかのマフラー。前後の車輪はしっかりと地面を踏みしめ、小刻みに震動する車体は、今すぐにでも駆け出したいと疼いているかのようだった。恵介が満足げに車体を撫でていると、表の方から恵介を呼ぶ声がした。ガレージを出て顔を出すと、私服姿の唯が立っていて、にこりと微笑んだ。ローズピンクのジャケットに白のセーター、ブラウンのスカートにブーツという組み合わせが、明るく優しい唯の雰囲気によく似合っていて可愛かった。

「こんにちは恵介くん」
「やあ唯ちゃん、今日は店はお休みかい?」
「うん、午前中に少しだけ手伝いがあったけど、お昼からは自由なの」
「そりゃよかった。俺の方もバイクのレストアがやっと終わったんだ。修理を始めてから一年もかかっちまったけど、今なら新車みたいに走り出すはずさ」
「ふふ……恵介くんって、本当に機械触るのが好きなんだね」
「はは、ごめんごめん。つい感無量で。ところで、なにか用があったんじゃあ?」
「あっ、そうそう。今日はバレンタインデーでしょ。だから、はい」

 両手を揃えて差し出されたのは、ピンクの包装に赤いリボンが巻かれた、シンプルで可愛い箱のチョコレートだった。

「……」
「あれっ? ど、どうしたの? もしかして、嬉しく……なかった?」
「いっ、いいい、いやそんなことないよ! なんていうか、その……ちゃんとこういうのもらったのって初めてだから。感激でつい言葉に詰まって」
「そ、そうなんだ……えへへ、良かった」
「嬉しいよ、すごく。ありがとう」
「うん……」

 それから二人は、しばらく無言のまま見つめ合っていた。頬を赤く染め、真っ直ぐに見つめてくる唯の瞳は少し潤んでいて、それがきらきらと光ってとても綺麗だった。

「あ、えっと」

 ふと我に返り、恵介は見とれていたのを誤魔化すように言う。

「実はさ、このバイクを少し走らせてみようと思ってたんだけど、一緒に乗ってみる?」
「わあ、乗ってみたいな。でも運転して大丈夫なの?」
「大型の免許はちゃんと取ってあるよ。それにまだ慣らしだから、安全運転で少し走るだけさ」
「それじゃ、ちょっとだけ」

 恵介はガレージからオートバイを出し、唯にヘルメットを手渡す。自分もヘルメットを被ってオートバイに跨ると、タンデムシートに唯が座る。

「慣れないうちは怖いと思うから、俺の体をちゃんと掴んでて」
「うん」

 唯は恵介の身体を後ろからぎゅっと抱きしめ、大丈夫だと頷く。背中越しに、柔らかい感触が伝わってきて、恵介はつい顔が緩んでしまう。

(おお、唯ちゃんって以外と……って、集中集中っ)

 気を取り直してクラッチレバーを握り、右足でギアをニュートラルから一速へ。クラッチを繋げながらアクセルスロットルを少し回すと、蘇ったナナハンオートバイはゆっくりと、だが力強く走り始めた。大通りを南に走って宵ヶ浜へ出ると、海岸線を西へと走る。左側に広がる海はどこまでも青く、太陽の光を反射して輝き、胸がすくような美しさだった。いつも電車から眺めているのとまるで違う景色は、とても新鮮で素晴らしいものだった。上倉学園の前を通り過ぎ、相南の海岸公園までやってくると、恵介はそこでオートバイを止めた。二人で海岸の方へ出てみたが、冬の海は人もまばらで、のんびり散歩する事が出来た。海風に吹かれながら、二人は色々な事を語り合った。

「天気もいいし、海は綺麗だし。ずっとこんな風にのんびり出来たらいいのにね」

 海風に舞いそうな髪を押さえながら、唯は微笑む。

「そうだね。色々あったけど、今は平和って感じだ」
「まさか自分がストーカーされてるなんて思いもしなかったけど……」
「あいつは危ない奴だったなあ。唯ちゃんに怪我がなくて本当に良かったよ」
「本当に怖かった。あの時、恵介くんにもしもの事があったらって思うと、私」
「純や坂井がいてくれて良かったよ。本当はあの時、俺も怖くて足が動かなかったんだ。はは、格好悪いなあ」
「ううん、そんなことない。恵介くんは必死に私の事守ろうとしてくれたんだもん。すごく格好良かったよ」
「そ、そうかな……あはは」
「あ、あのね恵介くん。私――」

 唯は立ち止まり、じっと恵介を見つめている。胸に手を当ててなにかを言おうとしているのだが、なかなか言葉が出て来ず、少しだけ不安そうな顔をしていた。彼女が言おうとして言えない言葉。きっと自分の今の気持ちと同じだろうと思い、恵介は唯の手を取り伝えた。

「唯ちゃん、俺……君が好きだ。たぶん、最初に会った時からずっと」

 その途端、唯の顔がみるみる赤くなっていく。最初は驚いて目を見開いていたが、やがて穏やかで嬉しそうな笑顔を向けて、彼女も答えた。

「私も好きだよ、恵介くん」

 自然に身体が動き、恵介は唯を抱き寄せる。抵抗はなかった。ゆっくりとまぶたを閉じた彼女に、恵介はそっとキスをした。




 自宅に帰っても、通じ合った気持ちの昂ぶりは抑えられなかった。恵介は自分の部屋に唯を招き入れ、ベッドに腰掛けてしばらく他愛のない会話をしていたが、ちょっとした拍子に指と指が触れ合うと、無言のまま指を絡ませ、そして二度目のキスをした。

「んっ……」

 唇を離してから、唯をゆっくりとベッドに寝かせる。仰向けになった彼女は、不安そうにしながらも、熱く潤んだ瞳で恵介を見上げていた。白いセーター越しに綺麗な形の胸が盛り上がり、くびれた腰へと続くラインは滑らかで美しく、恵介は思わず見とれてしまった。

「恵介くん?」
「あ、ご、ごめん。綺麗だったからつい」
「あはは……嬉しいけど、恥ずかしいな」
「え、えっと、その。さ、触っても……いいかな」
「……うん……いいよ」

 唯が小さな声で頷くと、恵介は彼女の胸にそっと手を乗せる。唯の胸はとても柔らかく、思っていたよりも発育が良い事は、嬉しい誤算であった。手応えのある胸の感触を味わいつつ、円を描くように優しく揉んでみると、唯は初めのうちくすぐったそうにしていたが、やがて鼻にかかる甘い吐息を漏らし始めた。

「唯ちゃん……気持ちいいのかい?」
「なんか、変な気分。身体が熱くて……」
「服、そろそろ脱いじゃおうか」
「う、うん。でもその前にお願いしていい?」
「お願いって?」
「もう一度キスしてくれる? 今すごくドキドキしてて……」

 唯の望み通りにキスをした後、恵介と唯は服を脱いで下着だけになった。二人とも初めてという事で、これからどうすればいいのか戸惑い、ベッドの上で向かい合ったまま正座をしていた。

「えっと……どうしよう」
「わ、私に聞かれても」
「ご、ごめん。慣れてなくてさ。もっとしっかりしてなくちゃダメだよな……よ、よし。まずは俺がリードしてみるよ」
「うん」

 この状況になって、恵介は純に少しだけ感謝していた。彼が時々渡してくれるエッチなビデオのおかげで、ある程度はどうすればいいか分かっていたからである。しかしそれでも、実際に自分がこういう状況になってみると、とにかく緊張して仕方がない。今の気持ちと勢いを無くしたら困ると思い、恵介は思い切って身を乗り出すと、唯の顎を指先で軽く持ち上げてキスをし、唇をついばみながら舌を滑り込ませた。彼女の口腔を隅々まで確かめるように舌でなぞると、次第に唯もとろんとした目つきになり、せがむように恵介に抱きついた。

「ちゅ……んんっ……ちゅっ、ちゅっ……」

 唯が自分から舌を絡めてくるようになると、恵介は彼女のブラを外し、ツンと上を向いた形の良い胸を手で弄り始めた。

「あんっ……恵介くん」

 小柄な体型ながら、唯の胸は完璧とも思える大きさと形を兼ね備えていた。すべすべしていて艶があり、美しい丸みと柔らかさを持つ魅惑の果実である。

「唯ちゃんって、脱ぐとけっこう凄いんだ。ほんと、大きさも形も最高だよ」
「や、やだぁ……そんな風に言わないで」

 乳房にキスをし、綺麗な桜色の乳首を舐めると、唯の身体がびくんと跳ねた。



「やんっ、恥ずかしいようっ」
「どこも恥ずかしくなんかないよ」
「だって、私なんかより綺麗な人いっぱいいるし……自信ないよ」
「唯ちゃんが最高だよ。少なくとも俺はそう思ってる。本当に綺麗だし可愛いよ」
「ああんっ、う、嬉し……ぅあっ」

 固くなった乳首を優しく噛むと、唯は甲高い声を出して喘ぐ。その様子にたまらなくなって彼女を横にすると、最後の下着をゆっくりと脱がせ、自分もパンツを脱いだ。

「じゃ、じゃあそろそろ……」

 本番に行こうとして、恵介は自分の息子が大人しくなっている事に気付く。心臓はドキドキしているし、目の前にある唯の綺麗な裸に興奮もしている。なのに肝心の息子が、意志に反して立ち上がってくれないのである。

「あ、あれ? おかしいな」
「ど、どうしたの?」
「い、いやその、ええっと……急に言うこと聞かなくなったというか」
「えっ」
「あわわ、ち、違うんだ。俺は唯ちゃんが好きだし魅力的だと思ってるし、と、とにかくごめんっ! こんなつもりじゃ――」

 いたたまれなくなって、恵介は思わず土下座をしてしまう。布団に額をこすりつけて頭を下げる恵介に苦笑したものの、唯は彼の肩をポンポンと叩くと、顔を上げた恵介の緊張をほぐすように笑いかけた。

「ふふ、大丈夫だよ。怒ってなんかないから、焦らないで。こういうのって、お互いの協力が大事だと思うから」
「ううっ、ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ」

 唯は慈しむような眼差しで恵介のそばに寄り添い、うなだれたままのそれに手を触れた。

「ちょっ、唯ちゃん」
「男の人って、ここを触られると気持ち良いんだよね?」
「そ、そりゃまあ」
「私も恵介くんにしてあげたいの。いいでしょ?」
「ゆ、唯ちゃ……ううっ!」

 唯の手つきは優しく、前後にさすられるだけでもかなり気持ちが良い。気を抜いたらすぐにでも出てしまいそうだった。

「わ……大きくなった」

 片手で口元を押さえながら、唯は手の中で大きくなるペニスをまじまじと見ていた。そして興味深そうに顔を近づけると、亀頭を指先でつつく。

「こ、こんな風になるんだね」
「ちょ、ちょっと待った唯ちゃん。やば……うああっ」
「え……きゃっ!?」

 恵介は我慢しきれず、唯の顔めがけて暴発してしまった。急いで彼女の顔をティッシュで拭いたが、あまりの情けなさに消えてしまいたかった。

「……ごめん。なんかもう、ダメだな俺」
「だ、大丈夫だってば。ちょっと驚いたけど……気持ち良かったんでしょ?」
「う、うん」
「よかった。私、恵介くんにたくさんもらってるから、少しでもお返しがしたいの」
「き、君は本当に……ゆ、唯ちゃんっ」
「きゃっ」

 唯の健気な言葉に胸が熱くなって、思わず押し倒していた。両腕の下で見上げてくる彼女と目が合うと、そっとキスをし恵介は訊く。

「今度は行けそうだ。入れても……いいかな」
「うん……優しくしてね」

 恵介は亀頭を秘裂にあてがい、彼女の奥へと入っていく。唯の中は狭く、濡れていてもかなりきつい。

「ぅあ……っく……痛ぁ……っ」

 唯は目をきつく閉じ、痛みに耐えている。つらいなら止めようかと訊いたが、唯はうっすらと涙を浮かべながら首を振る。膣内を押し広げるように奥まで辿り着いた時、唯は両手で顔を隠していた。

「唯ちゃん?」
「う……」
「ごめん、痛かったろ」

 唯の手にそっと自分の手を重ね、恵介は訊いた。唯は両手を顔から離し、涙で濡らした瞳で微笑んだ。それが嬉しくて、心から愛おしいと思った。

「好きだよ、唯ちゃん」
「っ……」

 思いを囁いた瞬間、唯の身体がぴくんと動いた。無理に動くのはやめにして、しばらくはこのまま気持ちを通わせればいい。そう思い、恵介は唯をぎゅっと抱きしめた。

「唯ちゃんって温かいんだな」
「恵介くんだって優しくて、勇気があって、すっごく温かくて……大好き」

 長い間、キスをした。身も心も繋がり合えたような気がして、幸せな気分に包まれていた。しばらくすると唯の膣内がじわっと熱くなり、腰がスムーズに動かせるようになった。

「唯ちゃん、少し動くよ」
「んっ……うん」

 ゆっくりと律動を始めると、たっぷりと溢れた蜜液がペニスに絡まって、彼女の奥を突く度にくちゅくちゅと音がする。膣壁もきゅうきゅうと締まってきて、すぐにも果ててしまいそうな気持ちよさだった。

「あっ、ああ……っは……んっ」

 唯の声が、恵介の頭を痺れさせる。苦痛に耐える小さな悲鳴は、淫らな喘ぎとなり――いつしか二人は、温もりと快感を夢中で求め合っていた。

「ひぁぁぁっ、あっ、うあんっ! 恵介くん、恵介く……んんッ!」
「はあ、はあ、はあっ……唯ちゃん……ッ」
「やっ、やだっ、わた、私っ……初めてなのに、こんなに……ッ」
「と、止まらないんだ……俺、どうしようもなく好きなんだ、唯ちゃんをっ」
「嬉しいよう恵介くん、嬉し……あ、あ、ああああああああーーーーッ!」

 溶けそうな快感と共に、恵介は唯の膣内に射精した。びくびくと震える唯の髪を撫でながら、彼は幸せの余韻を噛み締めていた。




「あのね、実はもうひとつ渡したいものがあるの」

 長い時間を共に過ごした後、恵介は唯に誘われて彼女の自宅の花屋に向かった。たくさん並べられている植物の中から、小さな白い植木鉢を持ち上げて、唯は恵介に手渡した。植木鉢には、小さな芽が顔を覗かせていた。

「これは?」
「ヒマラヤユキノシタだよ。鉢植えが壊された時、花壇に植え替えておいたの。そしたらね、根っこが伸びて、別の場所から新しい芽が出て来たの」
「へえ、そうだったんだ。根性のある花なんだなあ」
「よかったらこれ、恵介くんに受け取って欲しいなって。この花はね、バレンタインの誕生花なんだよ。って、今は芽だけど……」
「受け取るのは構わないけど、俺なんかが預かっていいのかな」
「……恵介くんがいいの」
「えっ?」
「ううん、なんでもない。丈夫な花だから、育てるのは難しくないよ」
「そっか。せっかくだしもらっておくよ。綺麗な花が咲くといいな」
「恵介くんなら、きっと大丈夫。だってステキな人だもん――」




 時はあっという間に過ぎ、卒業式の日がやってきた。大学受験も無事に合格し、晴れ晴れとした気持ちで卒業証書を受け取ることが出来た。たくさんの思い出がある上倉学園を去るのは寂しいが、新しい暮らしに心が躍る。そんな気持ちで、恵介は胸がいっぱいだった。

「俺たちの腐れ縁もここで一旦解散だな。仲良くやれよお二人さん」
「ああ、純も頑張れよ。もし一人暮らしで困ったら、いつでも連絡して来いよな」
「純くんがいなくなっちゃうと、寂しくなるね」

 卒業式が無事終わり、校庭ではクラスメイトの純と光太郎、そしてはるかが別れを惜しんでいた。彼らは小さな頃からの幼なじみで、ずっと一緒にいたのだから、卒業後に東京で一人暮らしをする純のことを誰よりも案じていた。恵介も純と別れの握手をし、もしも純が苦境に立たされた時には、必ず力になると固く誓った。

「あ、いたいた。恵介くーん」

 名前を呼ばれて振り返ると、校舎の方から唯が卒業証書を振りながら駆け寄ってきた。

「卒業おめでとう恵介くん」
「唯ちゃんもおめでとう。で、俺を呼んでたみたいだけど?」
「うん、ちょっと見て欲しいものがあるの。よかったらみんなも一緒にどう?」

 唯に誘われて向かった先は、中庭にある花壇だった。色々な植物が植えられていて、春の気配を感じて芽吹いているものもあったが、その中で大きな葉を広げ、真っ直ぐな茎を伸ばしてピンク色の花を付ける植物――ヒマラヤユキノシタがあった。

「あ、もうこんなに元気になったんだ。本当に丈夫な花なんだな」
「花言葉のひとつは忍耐だから。我慢強いのよ」

 そう言いながら、唯はにこりと笑う。

「唯ちゃんにもらったヒマラヤユキノシタも、元気に育ってるよ。もうじき花も咲くと思う」
「そうなんだ。よかった……」

 やけに嬉しそうな唯に首を傾げていると、はるかが満面の笑みを浮かべながら恵介に訊ねた。

「ねえ可児くん。ヒマラヤユキノシタを葉山さんからプレゼントされたの?」
「えっ、ああ。そうだよ。バレンタインの時に、チョコと一緒に」
「わあ、葉山さんてば恵介くんにぞっこんじゃない」
「へ?」

 意味が分からず唯を見ると、耳たぶまで真っ赤になってうつむいている。どういうことなのかはるかに訊くと、

「花言葉よ。ここから先は葉山さんから直接聞いてね、うふふ」

 と、背中を押されてしまった。仕方なく唯に訊ねると、彼女は小さな声でこう言った。

「あ、あのね。えっと。ヒマラヤユキノシタの花言葉はね――」

 つらい出来事に耐え、真っ直ぐに前を向く唯の笑顔は、まさに可憐な花そのものであった。彼女に出会えた幸せと、そして思いの深さを感じながら、恵介はいつまでも彼女の笑顔を守り続けたいと、そう願った。

 ヒマラヤユキノシタの花言葉は、忍耐、順応。
 そして、深い愛情――
 


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