夏のアルバム

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はるか(前編)


 シャツのボタンを掛け違えると、途中ではなかなか気づけない。最後に余ったり足りないボタンを見て、ようやく気づく事が多いものだ。シャツなら掛け直せば済む話だが、人と人との繋がりを掛け違えてしまうと、予想もしなかった事態へとずれが広がる場合がある。この夏に起きた事件も、些細な気持ちの掛け違いから始まった。
 七月になり、照りつける日差しがジリジリと肌を焦がす。今年の夏も暑くなると、ニュースの天気予報で言っていた。水泳部の活動もいよいよ本格的になり、インターハイに向けてはるかも練習に打ち込んでいた。放課後は水着姿のはるかを見る事が出来るチャンスで、練習に精を出す彼女を密かに眺めて行くのが楽しみでもあった。その日もプールから上がってくるはるかを見つけて俺は足を止めた。水泳で鍛えた身体はしなやかでありながら、女らしい柔らかさと丸みは失われていない。白い肌に弾かれた水滴は、夏の色を含んで鮮やかに輝いていた。目を奪われたままぼんやりしていた俺は、金網越しに話しかけられてようやく我に返った。

「ねえ光太郎、いつまでもそんなトコにいると、痴漢だと思われるよ」
「……気付いてたのかよ」
「気付くよう。さっきからそこでじーっと立ってるんだもん。もしかして……見とれてた?」
「ばっ、馬鹿言うなっ。俺は別に」
「ふふーん、無理しなくてもいいってば。年頃の男子には仕方ない事だもんねー」
「違うっつーとるだろーが」
「いいのいいの、そーゆーことにしておいてあげるから」

 勝ち誇った笑みを浮かべて、はるかはぴらぴらと手を上下に振る。

「っと、そんなことより」

 俺は本題を思い出し、鞄から映画のチケットを二枚出して見せた。

「あーっ、これって今度の新作映画じゃない」
「おう、親の知り合いがくれたんだ」
「いいなー、いいなー。私も見たーい」
「そう思って誘いに来たんだよ」
「本当!?」
「このところ練習漬けだったろ。少しくらい息抜きしたらどうかと思ってさ」
「わーい、嬉しいなーっ」
「今度の休みは空いてるのか?」
「えーっと、土曜日はよその学校と合同練習があるから、日曜日だね」
「よし、決まりだな」
「やったあ!」
「んじゃ、邪魔しちゃ悪いしそろそろ帰るわ。練習頑張れよ」
「もっちろん。ありがとね、光太郎」

 よほど嬉しかったらしく、はるかの表情に満面の笑みがこぼれる。その日は彼女の笑顔をいつまでも思い出してしまい、寝るまでにやけた顔が直らなかった。
 数日が経ち、快晴の日曜日が訪れた。映画館のある繁華街へ電車で向かう間、俺ははるかの新しいキャミソールとスカート姿にこっそり満足していた。俺たちは恋人じゃないが、世間で言うデートらしい遊びはよくやっていた。一緒に映画を観たり、買い物をしたり、甘い物を食べたり――互いに好みもクセも知っているだけに、変に気を遣わず自然体でいられるのが心地良い。そしてなにより、はるかは可愛かった。明るく愛嬌があってよく笑い、運動も勉強も優秀でスタイルも良いという完璧さで、他の女の子と比べても飛び抜けた魅力の持ち主である。
 そんなはるかの様子がいつもと違うのに気付いたのは、映画を見終わって立ち寄ったファーストーフード店での事。壁際の席に座り、シェイクを飲みながら感想を言い合うのがいつものパターンだったが、今日は話しかけても生返事ばかりで、心ここにあらずな反応しか返ってこない。

「なあ、映画つまんなかったか?」
「えっ?」
「だってお前、ボーッとしてるし」
「そそ、そんなことないってば。うん、面白かった」
「そのわりにはテンション低いよな。いつもはもっと騒いでるぜ」
「う、うん。そうだよね」

 はるかは申し訳なさそうに頷いて、黙ってしまった。時々顔を上げて俺の方を見るのだが、目が合うと慌てて逸らしてしまう。

「悩みでもあるんなら相談に乗るぞ」
「あっ、あのね光太郎っ」
「うおっ、なんだよ急に大きな声で」
「あっ、えっと……ううん、なんでもない。ごめんね、あはは」

 苦笑いで誤魔化す理由が分からずに、俺は飲みかけのシェイクをストローで吸い込んだ。
 その翌日も、さらに翌日もはるかの様子は直らず、学校で話しかけても困ったような顔をして、会話も盛り上がらない。俺がまずいことをしたという心当たりもなく、こうなったら直接聞くのが手っ取り早いと思い、水泳部の練習が終わるのを待ってはるかを捕まえた。

「ど、どうしたのこんな時間まで?」
「お前、なんか隠してることがあるだろ」
「ぎくっ」

 あからさまに動揺し目を逸らす反応を見れば、答えは聞くまでもない。

「あんな態度じゃこっちまで調子狂うんだよ。一体なにがあったんだ?」
「い、言わなきゃダメ?」
「ダメ」
「うう〜」

 俺がきっぱり言うと、はるかは観念してため息をついた。

「あのね、こないだの土曜日に合同練習で別の学校行った時に、そこの男子に……告白されちゃって」
「はあ? 様子がおかしかった原因ってそれか?」
「そうだよう。だから色々と悩んでたの」

 はるかが異性に告白されたりラブレターを貰った回数は数え切れないが、今まで全て断って来たのである。深刻な悩みかと思っていただけに、俺は拍子抜けな気分だった。

「なんだよ、そんなことか。あーあ、こんな時間まで待ってて損したな」
「そんなこと、って……」
「わかったわかった、いいから早く帰ろうぜ」
「もうっ!」
「なに怒ってるんだよ」
「別にっ」

 腹を立てて歩き出すはるかに肩をすくめ、俺も後を追って家に帰った。
 その日は俺の両親とはるかの両親がまとめて結婚記念日を祝うとかで、揃って食事に出かけたため、俺とはるかはそれぞれ留守番だった。いつもならはるかに夕食を頼む所だが、今日は少し怒らせてしまって言いにくく、俺は仕方なく自分で料理することにした。米を炊き、その間におかずの肉野菜炒めを作ろうとしたのだが、肝心の醤油がどこを探しても見あたらない。気は進まなかったが、結局はるかに頼み事をするハメになってしまった。

「おーい、はるかー。醤油切らしちまってさ、ちょっと貸してくれないか−?」

 玄関から顔だけを入れて頼んだが、返事がない。部屋の明かりは点いたままで、はるかの靴もちゃんと揃っている。もう一度同じように呼んでみたが出てこないので、俺は玄関のドアを開けてはるかの家に上がり込んだ。最近は滅多に入らなくなったが、小さい頃は毎日お互いの家を行き来したもので、勝手知ったるなんとやらである。居間を覗いてみたがはるかの姿はなく、二階の自室にいるんだろうと俺は階段を上り、ドアノブに手をかける。

「おーい、はるか。急で悪いんだけど、醤油貸し――」
「……ふえ?」


 俺は固まった。はるかは服を着替える途中だったようで、まくり上げたタンクトップの下から、ブルーと白のストライプに包まれた二つの膨らみが目に飛び込んでくる。下は先に脱いでおり、パンツはブラとおそろいの柄だ。

「ひ……ひゃぁぁぁぁぁっ!?」

 はるかの顔はみるみる真っ赤に染まり、聞いたこともないような声を上げる。

「わ、悪い! わざとじゃないんだっ!」

 俺は慌てて部屋を飛び出し、ドアにを閉めてもたれかかる。

(ど、どえらいものを見ちまった……水着の上からはしょっちゅうだけど、直に拝むとすげーなあいつ。って、そうじゃないだろ俺)

 どんな言い訳をしようかと考えていると、背中をぐいぐいと押される。ドアから体を離すと、Tシャツとジャージに着替えたはるかが、それはもう恨めしそうな顔で俺を見ていた。

「……で、なにしに来たの?」
「その、醤油を切らしてて」
「そう。台所にあるから持ってっていいよ」
「お、おう。そりゃ助かる」
「その前にさ、光太郎」
「へっ?」

 俺が間抜けな返事をしたのと、えぐり込むような右ストレートが炸裂したのは同時だった。例によって妙に正確な狙いのパンチを鼻先に食らい、俺はばったりと倒れてしまった。

「バカ! スケベ! 光太郎のヘンタイ! のぞき魔!」

 部屋に隠れて、はるかは力一杯叫ぶ。つーんと痛む鼻をさすりながら、さらにはるかの機嫌を悪くしてしまった事にため息をついた。
 次の日曜日がやってきた。目を覚ました頃には正午を過ぎ、太陽は熱く燃えて海を照りつけていた。今日は純もはるかも用事があるとかで、一人きりの休日だった。二度寝するには暑くて仕方がないし、日が暮れるまでまだ時間が余りすぎている。俺はいつものように繁華街へ足を運び、買い物でもしながら時間を潰す事にした。
 電気屋でパソコンの部品を見たり、服屋で新しいシャツの手触りを確かめたりした後、レコードショップで好きなバンドのアルバムを買い、店を出ようとしたその時事件は起きた。

「あ、あれ……?」

 自動ドアで入れ違いになった男女を見て、俺は味わったことのないショックを受けて立ち尽くす。知らない男と並んで歩いていたのは、見覚えのあるキャミソールとスカート姿のはるかだった。

「な、なにやってんのお前?」
「なにって……」

 ヘアスタイルも完璧、よそ行きのお洒落をした姿を見ておいて、我ながら愚問である。次の言葉が見つからないまま固まっていると、隣に立っている男がはるかにそっと訊ねた。

「彼、はるかさんの友達?」
「う、うん」

 はるかが頷くと、男は俺の方を見て一歩近付いてきた。俺より若干痩せている以外、身長や体格はほぼ同じで、歳も同じくらいだが、顔はファッションモデルみたいに均整が取れていて、腹が立つほど美形の優男である。

「悪いけど、また今度にしてくれないかな? 時間を無駄にしたくないんだ」

 そう言い残し、優男ははるかを連れて去っていく。なにも知らない人が見たら、お似合いのカップルだと言うことだろう。俺はただ、小さくなる二人の後ろ姿を呆然と見つめている事しかできなかった。
 その夜――明かりを落とした自分の部屋で、俺は悶々と考え続けた。
 はるかは言い寄ってきた男との交際はもちろん、デートにも応じたことが無い。彼女のハートを掴んだ奴だけがデートの権利を得られるのだと、まことしやかに噂されるほど断り続けていた。そのはるかが、俺の知らない男とデートをしていた――この事実がどういう意味なのか、分かっているが考えたくない。それでも明日はやって来るし、嫌でもはるかと顔を合わせなければいけない。

(どんな顔して会えばいいんだよ。俺はこれからどうすりゃいいんだ)

 考えて、考えて、考えて。窓から見える空が白み始めた頃、やっと決心がついた。

「よう。今日も朝から暑いな」
「えっ、そ、そうだね」
「朝からボーッとしてんなよ。早く行かないと遅刻するぜ」

 気まずそうな顔をして迎えに来たはるかにそう言って、俺は学校へ向かう。いつも通りに授業を受けて、昼食を終えてまた授業、そして放課後を迎える。鞄を手に教室から出ようとすると、後ろからはるかに呼び止められた。

「光太郎」
「ん、どうした?」
「あのさ、怒ってる? 昨日の事……」
「なんで怒るんだよ」
「だ、だってあんなの見たら」
「……俺には関係ねえよ」

 これ以上話す事はなかった。押し黙ってしまったはるかを置いて、俺は教室を後にした。夕方になっても真夏の暑さは収まらず、少し歩くだけで汗が滲むが、不愉快な原因はそれだけではない。波の音、茜色に染まる空と海、潮風の匂い。いつもは心が落ち着く宵ヶ浜の景色全てが、俺の心を心をざらつかせていく。俺は落ちていた石を拾い、海に向けて思いっきり投げてやった。
 その夜、俺は純を連れて繁華街をブラブラしていた。昨夜ほとんど寝ていなかったが、まったく眠くならない。気分を紛らわせようとゲームセンターに向かう途中、歩道の隅で頭の悪そうな三人組が女の子を取り囲んでいるのを見つけた。その子は知った顔で、いつもはるかと仲良くしている同級生だ。彼女は困り果てた様子で、行くも退くも出来なくなっている。純に目配せして連中の間に割って入ると、三人組のうち坊主頭で眉毛のない奴が俺を睨みつけた。

「あぁ? 誰だテメェは? 俺が鶴田三兄弟の次男、大奇だと知ってんのかこら」

 金のネックレスとアロハシャツという服装に加えて、いかにもチンピラですよと言わんばかりの口上である。女の子の手前もあり穏便に済ませようとしたのだが、話が通じないばかりかいきなり殴りかかってきたので、久しぶりにケンカを買ってやる事にした。無性に暴れたい気分だった。

「いやー、しかしあの時はケッサクだったよな」

 数日後の放課後、俺と純は廊下を歩きながら、この前のケンカを思い出して笑っていた。三人組のチンピラは見た目と口が達者なだけで、ケンカの腕は大した事はなく、弱かった。

「ボクシングで鍛えたこのフックで、俺はどんな奴も沈めてきたんだぜ」

 鶴田という坊主頭はこう脅かしてきたが、実際にはフックに見せた肘打ちだったり、他にもあからさまに目や金的を狙ってきたりと、セコいケンカしか出来ないような奴だった。俺は三人まとめてお灸を据えてやり、二度とこんな真似をしないように釘を刺しておいた。

「アホだったよなーあいつ。久しぶりに笑わせてもらったぜ」
「二度と関わりたくないけどな。俺は平和に生きると決めたというのに」

 下駄箱に差し掛かり、上履きからスニーカーに履き替えていると、純がポンと手を打つ。

「あ、思い出した。なあ光太郎、はるかとケンカでもしたのか?」
「別に。なんにもねぇよ」
「どーも最近、会話が足りない気がするんだよなお前ら。はるかも寂しそうな顔してるし、なんかやって怒らせたんじゃねーの?」
「知らないって言ってんだろ。ていうかお前は俺たちを観察してんのか」
「ばかものー、幼馴染三人組の異変はな、もちづきレーダーにビビビと電波が飛んでくるシステムになってんだよ」
「暇そうでいいなお前」
「光太郎くん、俺をバカにしてるだろ」
「おお、己を知るとは成長したな純」
「うがーっ! うるせー! とにかくちゃんと仲直りしとけよ、いいな!」
(こいつバカなのに、妙に勘が鋭いんだよな……)


 校舎を出て校門の前に差し掛かかると、学ランを着た奴が通りすがりの生徒を捕まえては、なにやら質問している。普段なら気にも留めず素通りするところだが、そいつは日曜日にはるかと一緒にいた、美形の優男だったのだ。

「どうした、急に立ち止まって。てか、顔が怖いんですけど光太郎くん」
「悪い、なんでもない。行こうぜ」

 見なかった事にして通り過ぎようとしたのだが、向こうに気付かれ声をかけられてしまった。仕方なく振り返ると、以前会ったときと同じ、ファッションモデルみたいな顔がある。

「やあ、君は確かはるかさんの友達だっけ。僕は斉藤大介。こないだは挨拶もせずに悪かったね」

 事情を知らない純だったが、斉藤大介という名前をどこかで聞いた憶えがあると首を傾げている。

「なんの用で来たんだ?」

 どうせはるかと待ち合わせしているのだろうが――そう思ってぶっきらぼうに聞くと、今日は人捜しのために来たのだという。

「君は坂井光太郎って奴を知らないか? この学校じゃ結構な有名人らしいんだけど」
「……そいつにどんな用があるんだ」
「本人に話すことだから、悪いが君には言えない」
「話せよ。目の前にいるんだから」
「え?」
「坂井光太郎は俺だ」
「そ、そうだったのか」

 今度は斉藤が驚き、まじまじと俺の顔を眺めて考え込む。

「はるかさんから聞いていたよ。いつも一緒にいる、面白くて頼れる幼馴染みがいると」
「さっさと用件言えよ。忙しいんだから」
「坂井、君は数日前、鶴田大奇という奴とケンカをしただろう。他にも二人いたはずだが」
「ツルタダイキ……ああ、あのチンピラそんな名前だったような?」
「あいつらは僕の後輩でね。特に大奇は君に腕を怪我させられて、ボクシング部の試合に出れなくなってしまった。その事を詫びて欲しい」
「はあ?」
「しかも話を聞けば、君が因縁を付けていきなり殴りかかったそうじゃないか」

 確かに鶴田というチンピラをぶん殴ったが、いつそんな出来事が起きたのか。その話はおかしいと、純も口を添えてくれた。

「ちょっと待ちなって。光太郎は腕に怪我なんてさせてねーよ。俺も一緒にいたんだから間違いねーって」
「悪いが信用できない。二人で口裏を合わせていたら、僕には確かめようがないからな」
「かーっ、信じる心ってやつはどこへ消えちまったのかねー。わーったよ、だったら第三の証人連れてきてやっからな。そこ動くなよ!」

 腹を立てた純は、証人とやらを探しに学校へ戻って行ってしまった。

(おい、こいつの相手は誰がするんだよ……ったく)

 小さくため息をつき、俺は斉藤をちらっと見る。人の話に聞く耳持たない奴だが、こっちにも言い分はある。

「一方的に言ってくれるけどさ、俺が怪我させた証拠でもあるのか?」

 そう訊ねると、斉藤は一枚の写真を出す。写真には腕にギプスをはめて、わざとらしく痛そうにしている鶴田が写っており、これが動かぬ証拠だという。後輩思いなのは良く分かったが、こんな三文芝居で言いがかりを付けられてはたまらない。鶴田のバカはいずれお仕置きしてやるとして、まずは目の前の問題を片付けるのが先決である。

「なあ斉藤。お互い退く気もないし、ゲンコツで決着を付けるってのはどうだ」
「ケンカか? それは……」
「安心しろよ。ボクシング部に話付けて、スパーリングって事にしとけば文句も言われないだろ。決着はテンカウントのみ、ダウン回数の制限は無しでどうだ。それとも、殴り合いなんて出来ないか?」
「わかった。受けて立とう」

 ケンカとは縁が無さそうな斉藤が、躊躇なく返事をしたのは意外だった。ボクシング部を訪れて頼んでみると、あっさりリングと道具を貸してもらう事が出来た。いきなりの話で断られるかと思っていたのだが、斉藤の顔を見た途端、部長はひとつ返事で承諾した。態度が少し気になったが、邪魔が無いなら構わない。準備を終えてリングに上がると、鶴田に絡まれていた女の子を連れた純と、はるかが慌ててリングサイドに駆け寄ってきた。

「ちょっと光太郎、なにやってんの!」
「見りゃわかんだろ。ボクシングだよボクシング。アンダスタン?」
「どうしてこんな事になっちゃってるのようっ」
「言いがかり付けてきたのは向こうなんだよ。黙って引き下がれるかよ」
「だ、ダメだってば! 斉藤くんとボクシングなんて――!」

 妙に必死なはるかの隣で、息を切らした純も訴える。

「ぜえぜえ、こ、光太郎、まずいぜ……さっき思い出したんだけど、あいつは――」
「あーもう、黙って見てろよ。一対一の勝負なら負けねーよ。ケンカで鍛えた実力なめんなよ」
「おい待てって光太郎! おいっ!」

 心配してくれるのは嬉しいが、この状況は密かに願っていた好機でもある。いまさら辞めるなんて出来るわけがない。リング中央に進み、互いのグローブを突き合わせたのを合図に勝負が始まった。まずは軽いジャブを数発打って様子を見る。斉藤はガードを固めて距離を取るばかりで、手を出してこない。やはりケンカに慣れてないのか――と思ったが、グローブの奥に潜む眼光は、得体の知れない迫力に満ちていた。

(な、なんだこいつ……まるで別人みたいだ)

 背筋に冷たいものが走る。今まで誰とケンカをしても、こんな気分になった事はなかった。長引かないうちに勝負を決めてしまおうと、力を込めたパンチを繰り出したその時。

「……!?」

 俺はマットに崩れ落ちた。腕が伸びきった一瞬を狙い、斉藤の右ストレートが顎を撃ち抜いたのだ。意識だけはかろうじて繋ぎ止めたが、たった一発で俺の足は言う事を聞かなくなり、テンカウントが終わっても立ち上がることができなかった。

「よし、僕の勝ちだな」
「お、お前……素人じゃねーな」
「さあ、約束通り大奇に謝ってくれないか」
「うぐ……」

 俺を見下ろす斉藤から感じるビリビリとした威圧感は、鶴田と比べものにならない。

「ま、待って!」

 その時、はるかの友達が話を遮り、間に入った。

「光太郎くんは、鶴田大奇って人に絡まれてた私を助けてくれたのよ。そこの純くんも一緒にいて、一部始終見てたんだから嘘じゃないわ」
「な、なんだって?」

 リングサイドから眺めていた純も、ようやく信じたかと呆れ顔で頷く。

「あなた、あの人が本当に腕を怪我をしてたか確かめたの?」
「それは……」

 はるかの友達に言われて、斉藤の顔に動揺が見える。ようやく鶴田が芝居を打っていた事に気付いたのだろう。

「ぼ、僕は騙されてたのか。すまない事をしてしまった……」

 頭を下げて詫びる斉藤からは険しさが消え、少し頼りない普段の顔に戻っていた。

「だ、だから違うって言ったじゃねーか。どう落とし前付けてくれるんだこら」

 コーナーポストによじ登ってなんとか立ち上がることが出来たが、気を抜くとすぐに倒れてしまいそうになる。歯を食いしばってこらえながら、俺は斉藤に言った。

「この貸しをチャラにしたけりゃ、一ヶ月後にもう一度俺と勝負しろ。い、嫌とは言わせねえぞ」
「わかった。君の気が済むようにしよう」

 斉藤は頷き、はるかの友達に頭を下げてから帰っていったが、俺はいつまでもコーナーから動けなかった。そんな俺の肩を、純が残念そうに叩く。

「だーからやめろって言ったんだぞ」
「なんだよ……あいつのこと知ってたのか?」
「戻ってくる途中で思い出したんだよ。相南高校三年、ボクシング部主将の斉藤大介。去年のインターハイで準優勝、今年も優勝候補の筆頭って言われてるバケモンだぜ」
「ちっ、やっぱりかよ……くそっ」

 スパーリングをすんなり許可してもらえたのは、斉藤の技術を見られるまたとないチャンスだったかららしい。ボクシング部じゃない俺は、丁度いい人身御供だったというわけだ。部長の野郎め。

「しかし負けたなー見事に。文句の付けようがないノックアウトだったもんな」
「……」
「顔の形変えられちまうんじゃねーかとヒヤヒヤしたけど、一発だけで良かったじゃねーの」
「なにが良かったんだ。俺は負けたんだぞ畜生ッ!」
「あ、いや、そういうつもりじゃ」

 思わず怒鳴る俺の前に、今度ははるかがやってきた。目を吊り上げ、口はきゅっと固く結んでいる。あまり見ることはないが、本当に怒っているときにはこんな顔をする。

「また勝負しようって、なに考えてるの?」
「負けっ放しのままでいられるかよ」
「誤解は解けたんでしょ? もう勝負なんてする必要ないのに」
「これは俺の問題なんだ。関係ない奴は黙ってろよ」
「関係あるよ。しなくてもいいケンカで怪我でもしたら、バカみたいじゃない」
「ケンカじゃねぇし俺の問題だって言ってんだろ!」
「なによっ、怒鳴らなくたっていいでしょ!」

 こうなるともう、売り言葉に買い言葉という奴で。

「お前がうだうだ言うからじゃねーか!」
「このわからずや!」
「大体な、なんでそんなに首突っ込んでくるんだよ。放っときゃいいだろ」
「だ、だって……!」
「いつまでも俺に構ってないで、彼氏の心配でもしてろ!」
「――!?」

 それが最後の引き金だった。はるかは肩を震わせ、大粒の涙をこぼして泣き始めてしまった。

「ち、違……わ、わた、私……ひっく」
「な、なにが違うんだよ」
「知らないっ。もうっ、か、勝手にすれば! 光太郎のバカ!」

 背を向けて走り去っていくはるかを追って、友達もボクシング部を出て行く。
 俺は負けた。大事なものはどんどん遠ざかり、敗北感と孤独感がまとわりついていつまでも離れなかった。

 勝負の翌日から、俺は再戦に向けてのトレーニングを開始した。放課後はボクシング部に入り浸り、学校が閉まった後は宵ヶ浜で走り込みをする毎日がしばらく続いた。一週間が過ぎ、夏休みを目前に控えた日曜日の夕方。砂浜で走り込みをしている俺を、防波堤の上からじっと見下ろしている奴がいる。

「おーい、そんなところで見物してて楽しいのか。降りて来いよ」

 純だった。大きな袋を担いで俺の前にやってくると、にへらと笑った。

「おーおー、熱血モードが止まらないねー光太郎」
「なんだよ、冷やかしに来たのか?」
「いやーそれがなー。見ちまったんだよ俺も」
「見たって、なにを?」
「斉藤の奴、あれからもちょくちょくはるかをデートに誘ってるらしいぜ」
「……ふーん」
「お前、なにか言ってやったのか?」
「俺が口出しする事じゃねえよ」
「あーあ、ダメだこりゃ。はるかも苦労するぜ」

 頭をボリボリと掻いて、純はため息をつく。

「どういう意味だよ。さっきから言ってることがわかんねーぞ、おい」
「あーっと、俺がここに来たのはなあ、へっへっへ」

 純が袋から取りだしたのは、ボクシングのトレーニング用ミットだった。

「今日から俺も手伝うぜ。トレーナーがいなきゃ良いボクサーは育たねーからな」
「ど、どうしたんだよ急に」
「斉藤は強えーぞ。そのうえイケメンで人間も出来てて家も金持ちだし……あ、ステータスで光太郎が勝ってる部分ひとつもねーな、わはは」
「お前は俺のやる気を削ぎに来たのか」
「だがしかしっ! 光太郎に勝ってもらわなきゃ俺が困るのっ」

 ミットを手にはめ、純は打ってこいと催促する。左、右と続けてパンチを打ち込むと、軽快な音が砂浜に響く。

「あいつの弱点も調べといてやっから、めいっぱい練習に集中しろよ!」
「純、お前……」
「なんだ、俺の優しさに惚れ直したか?」
「変なもん拾い食いしたんじゃないよな」
「やかましいわバカヤロー!」

 そして、運命の夏休みが始まる――




「和泉ー! 練習に気が入ってないんじゃないのかー? 最近タイムが落ちてるぞー」
「はいっ、す、すいません」
「こんなんじゃインターハイどころか地区予選も厳しいぞー」

 プールから上がった私を待っていたのは、先生の厳しい声。こんな事じゃいけないと気持ちを入れ直し、もう一度飛び込み台に立つ。
 夏休みになっても、私は憂鬱だった。あの日から光太郎とは喋っていないし、たまに家の前で姿を見かけても、目を合わせようともしてくれない。ちょっとしたケンカをしたことは幾度かあったけれど、こんなにも互いを遠く感じるのは初めてのこと。ため息の数は増え、気付けばいつも考え込んでいた。
 相南高校との合同練習があったあの土曜日、練習が終わった私は斉藤くんに呼び止められ、告白された。気持ちは嬉しいけれど――いつもみたいに断ろうとした矢先、斉藤くんが逃げ道に回り込む。

「せめて一度、僕がどういう人間かを伝えられるチャンスが欲しい。それで駄目なら諦めもつく」

 そう言われて断り切れなかった事が、こんな状況にまで発展してしまった。大喧嘩をしたあの後も斉藤くんからデートの誘いがあり、断る理由が無くなった私は、何度か彼とのデートに応じた。少しでもつらい気持ちを忘れられるかと思ったけど、不安と寂しさがますます募るだけで。
 プールの水面に映る姿が、ゆらゆら揺れている。それがまるで、不安定な今の気分を映しているみたいだった。




 八月初旬。前回と同じ上倉学園ボクシング部のリングで、再戦は果たされた。俺のセコンドには純が付き、リングサイドではるかが勝負の行く末を見守っている。この日のために特訓を続けてきたものの、積み重ねた練習量の差が埋まるわけもなく、一方的な展開が続いていた。カウンターを気にして手を出せずにいると、斉藤は激しく攻めてきた。連打に見えるパンチは急所を正確に狙い、俺の反撃はフットワークでかわされ届かない。インターハイ優勝候補の実力を、俺は思い知らされていた。
 それでも、諦めることは出来ない。前回の雪辱を果たしたい事もあるが、勝負直前の出来事が脳裏に蘇る。

「坂井。ひとつ聞いておきたいことがある。君とはるかさんの関係について」
「俺とはるかは幼馴染みで……それだけだ」
「彼女に対して特別な感情は無いと?」
「ごちゃごちゃうるさい奴だな。なんでそんなこと聞くんだ」
「今回の勝負、僕が勝ったらはるかさんをもらう。心も、身体も」
「なっ……!」
「彼女の心を射止めるには、君との関係を清算しなければならない事がよく分かったからな。異論があるなら僕に勝て。こっちも本気で迎え撃つ」

 宣戦布告だった。はるかを賭けて戦え――と。言葉通り、斉藤は本気だった。容赦なく殴られて何度もダウンを奪われ、今も意識の糸にしがみつきながら、どうにか立ち上がった所だった。

「もういいよ光太郎! これ以上続けたら死んじゃう!」

 俺を見て、はるかは目に涙を滲ませている。ボコボコにやられて腫れた俺の顔は、それだけひどいのだろう。俺だってこのまま寝てしまいたいが、それだけは出来ない。たとえ俺の心臓が止まったとしても。

「な、泣くなよ……俺は絶対に負けねぇから、だから」

 ファイティングポーズを取り、俺は斉藤に向かって手を出し続ける。ろくに力の入ってないパンチはさしたる打撃を与えることも出来ず、嵐のような連打で反撃され、止めの一撃が棒立ちの俺に直撃した。

「……!」

 意識が吹っ飛ぶ。自分がマットに倒れた事すら、よく分からなかった。ぼやけた視界の向こうで、はるかが泣いている。口を動かしているのは分かるが、なにを喋っているのかよく聞こえない。

「光太郎、しっかりして、光太郎!」
(なんで泣いてんだはるか……誰だよ、お前を泣かしてる奴は)

 小学校に入って間もない頃、俺ははるかを泣かせたことがある。子供同士の些細な口喧嘩だったが、心ない言葉ではるかを傷つけ、後で親父にこっぴどく叱られた。

「――いいか光太郎。ケンカや悪戯は男なら仕方がない。だけど女を泣かす事だけはするな。父さんと約束できるか?」

 いつも仕事に追われて忙しく、ほとんど会話もない親父と交わした約束。あの日、もう二度と泣かさないと決めたはずなのに。

(また俺がやっちまったんじゃないか。俺が、俺がまた――!)

 自分に腹が立って仕方がなかった。親父との約束も守れず、地べたに倒れたまま終われない。そう思った途端、急に意識が冴えてきて、手足にも力が入る。立ち上がる俺を見て、斉藤は信じられないといった表情をしているが、ケンカで打たれ強さは身に付いている。ピンピンしている斉藤が有利なのは変わらないが、勝負を焦ったのか攻め方がほんの少しだけ雑になってきた。

「光太郎、今だぞ!」

 セコンドから純が叫ぶ。そうだ。俺たちはずっとこのチャンスを待っていた。高校生離れの強さを誇る斉藤だが、勝負が長引いた時などに、苦し紛れに左のフックを打つ癖があり、一瞬だけガードが下がる。純が徹夜で見つけてくれた弱点を、俺は全霊込めた右のストレートで打ち抜く。

「――!?」

 完璧な手応えだった。斉藤はその場に崩れ落ち、両手を床に付いたまま立ち上がってこない。

「ワン、ツー、スリー、フォー……!」

 レフェリーのカウントが聞こえる。だけどもう、俺も限界だった。テンカウントを最後まで聞くことなく、俺の意識は闇に溶けた。

「……う」

 見慣れた天井と、独特な消毒の匂い。気が付くと、俺は保健室のベッドで寝かされていた。ベッドの横には丸椅子に腰掛けたはるかがいて、心配そうにじっと俺を見てた。

「斉藤は?」
「もう帰ったよ」
「あの後どうなったんだ? 奴をダウンさせたまでは憶えてんだけど」
「カウントが終わる直前にね、光太郎倒れちゃったんだよ。いくら呼んでも目を覚まさないし、それで騒ぎになって、結局うやむやになっちゃった」
「……そっか」
「心配したんだよ、本当に……でも、光太郎が起きて良かった」

 はるかは声を詰まらせながらも、安心した顔で笑う。だが今は、それがつらい。結局俺は負けたのだから。普通のルールで戦っていれば、もっと早くに決着が付いていただろう。時間が長引いただけで、勝負の内容は誰が見ても明らかだ。

「俺のことより、斉藤を放っておいていいのかよ。付き合ってるんだろ?」
「……え?」
「なにその反応」
「え、あれ? えーっと。私って斉藤くんと付き合ってるの?」
「俺に聞くなよ。ってか、デートしてただろ」
「あ、あれは一回だけどうしてもって断り切れなくて……それに光太郎が悪いんだよ」
「へ、俺?」
「私のことなんかどうでもいいみたいに言うんだもん。ああすれば少しは気にするかなって」
「待て待て、ちょっと待て。もしかして今回の話、俺が勘違いしてただけなのか?」
「じゃないかな。たぶん」

 急に全てがバカバカしく思えてくる。これでは痛い思いをしただけ損ではないか。人生で最大級のため息をついてうなだれたが、心の奥では掛け違えたボタンが全部外れたような、清々しい気持ちである。

「あっ、それとね。斉藤くんから伝言」

 はるかはそう言って、二つ折りのメモを渡してくれた。

(――坂井へ。あのパンチは効いたよ。僕がダウンさせられたのは今回が初めてだ。それから勝負のことだが、はるかさんの心の中には君がいる。リングサイドで彼女がずっと見ていたのは、僕ではなかった。たとえ力ずくで手に入れても、彼女に振り向いてもらう事は出来ないと思う。だから君の勝ちだ)

 達者な文字でメモにはこう書かれており、最後にこんな一言が付け加えられている。

(追伸。今回は身を引くが、君が不甲斐ない真似をしたら今度こそ彼女を奪いに行くぞ)
「ちぇっ、格好付けやがって」

 俺はメモをくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱めがけて放り投げる。

「よく分からないけど、なにか約束でもしてたの?」
「あ、いや。それにしても容赦なくぶん殴りやがってあの野郎……いてて」
「大丈夫?」
「なわけねーだろ。痛ぇよ。超痛ぇよ。頭ガンガンするし顔は腫れて熱いし」
「そ、そだね。光太郎だって知らなきゃ、今は友達になりたくない顔してるよ」
「やかましいわい」
「ぷっ……あはははははっ」
「こら、他人の顔見て笑うのは失礼だと義務教育で習わなかったのか。てか笑いすぎ」
「あはは、ごめんごめん。でも、久しぶりに光太郎とこんな風に喋れて嬉しいなって」

 笑顔に滲む涙の意味は、俺にもよく分かる。痛む身体を起こして、俺ははるかを見る。いつもと同じで、そして久しぶりな。それがどんなに大事だったか、ようやく思い出した。

「……悪かった」
「え?」
「ひどいこと言って、泣かせちまってごめんな」
「ううん、私もひどいこといっ、言って……うええええーん、良かったよー」

 また泣かせてしまった。でも、これは親父も許してくれると思う。なぜなら、はるかは泣きながら笑っているのだから。俺ははるかを抱きしめ、背中をさすってやる。今の俺がしてやれるのは、これが精一杯だった。

「光太郎、ありがと……」
「はるか、俺は」

 保健室には俺たち以外誰もいない。感じるのは互いの体温と息づかいだけ。初めての雰囲気に緊張して、視線を泳がせたその時、保健室のドアが僅かに開いていて、その向こうで純がニヤニヤしながら覗いているのを見た。見つけてしまった。

「なにをやっとるんだおのれは」
「ああ、いやいや。ほれ、続きをどーぞお二人さん」
「続きもクソもあるか。つーか覗きって最悪だな」
「そ、そこまで言うか」
「俺はもう帰るぞ。体中ガタガタだし、しばらく家で寝てるわ」

 はるかは赤面していたが、こっちは恥ずかしがる余力もない。純とはるかに支えられながら家まで辿り着くと、疲労と腫れで二日ほど眠り続けた。


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