純情恋奇譚

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前編



「というわけで、夏と来れば肝試しだろ」
「なにがというわけなんだよ」

 リビングのテーブルを挟んで座り、ずぞぞ、と音を立ててアイスコーヒーのストローを吸い上げる友人を、坂井光太郎はあきれ顔で眺めていた。純は白のタンクトップに緑チェック柄の半袖シャツ、ベージュのカーゴパンツという普段着で、日に焼けた顔によく目立つ白い歯を覗かせて、にへらと笑っている。純が突拍子もないことを言い出すのはいつもの事だが、気になるのは純がここにいるという事である。

「東京で記者目指すんじゃなかったのか。大学はどうしたんだ」
「お前はなにを言っているんだ」
「は?」
「今日の日付を言ってみそ」
「七月……って、ああ」
「そ、大学生は楽しい楽しい夏休みだぜ。つまりなにをしようとフリーダム!」
「それで思いついたのが肝試しなのか?」
「ああ麗しの宵ヶ浜よ、俺は帰ってきた! 波と風が似合う浜のヒーロー! みんなのアイドル! もっちーカムバーック!」
「聞けよ、おい」

 窓に向かって両手を広げ叫んでいた純は、くるりと振り返ってニッと笑う。もちろんそれだけじゃないんだぜという返事が、純の表情から見て取れる。そういえばいつも唐突に、バカバカしい話を持ってくるものだったなと、光太郎は思い出しながら次の言葉を待つ。

「実は大学のサークル活動で、本の記事作る事になったんだよ。そんで季節らしいネタを探して来いって言われてさ。俺は考えぬいた結果、この素晴らしいアイデアに辿り着いたわけよ」
「思いっきり定番じゃねーか」
「ちっちっち、これだからシロートは。普通なら単に写真撮って紹介して終わりだろーが、この俺は違うぜ。幽霊をガッツリ激写して世の中を震撼させてやんのよ、ひっひっひ」
「……そうか。で、どうやって撮るんだ?」
「そのためにここへ来たんじゃねーか」
「へ?」

 純はテーブルに身を乗り出し、いいか良く聞けと人差し指を立てる。

「偶然写るのを待ってたんじゃ間にあわねーだろ。だからこっちからおびき出してやるのさ」
「おびき出すってお前」
「俺の作戦はこうだ。まず光太郎とはるかのカップルご一行が心霊スポットに行く。そんでそこら辺歩き回ってるうちに、幽霊がくそうイチャイチャしやがってリア充爆発しろ、と嫉妬に燃えながら登場、そこで俺がすかさず激写ボーイって寸法よ」
「……あのな」
「お前らカップルは夏のイベントを満喫できてハッピー、俺は記事のネタをゲット出来てハッピー。どうよこの完璧な作戦は。我ながら一分の隙も見あたらねーぜ」
「いや、だから」
「つーわけで、俺はちょっと現場の下見に行ってくるぜ。はるかにも話伝えといてくれよ、じゃーな!」
「おい、ちょっと待っ……」

 純はそう言って立ち上がり、光太郎の制止も聞かずに家を飛び出していく。突き出された光太郎の右手は、虚しく宙を掻くばかりであった。




 純は事前に作り上げた心霊スポット一覧表を手に、上倉市内をあちこちと見て回っていた。上倉市は古都と呼ばれるだけあって、市内には重要文化財である古い寺社や建物が数多く残っている。そのためか上倉市やその周辺には心霊スポットが数多く点在しており、全国的に噂が広まっている。純は幽霊が出て来そうな場所の目星を付けるため、自分の足で確かめに来たのだが、昼間ではそういったいわく付きの場所も怖さが半減し、いまいちピンと来ない。そう感じながら純は、名声切通(なごえきりとおし)という山道を一人で歩いていた。ここも有名な心霊スポットのひとつであり、道中には木々や雑草が生い茂り、切り立った岩壁や苔むした岩、石仏や道標が点在していて雰囲気は悪くない。それでも明るいうちはハイキングコースのようにも思えてくるので、純はもっと面白い物はないかと道を逸れた山の中へと入り込んでいった。

「おわっ!?」

 硬い出っ張りに足を引っかけ、純は前のめりに転ぶ。鼻をさすりながら起き上がって足元を見ると、ほとんど雑草に埋もれてはいたが、風化してボロボロになった、石碑らしき物が転がっていた。全体にはびっしりと苔が生えていて、傍目には石で出来ているとすら見分けが付かないほどである。

「ちぇっ、こんなの転がしっぱなしにすんなっつの。おーいてて……ん?」

 足が当たって苔が剥がれた部分に、文字のようなものが刻んである。純はそれを読んでみようと目を凝らしたが、どう頑張ってもミミズかナメクジが這った跡にしか見えず、なにが書いてあるのかは分からなかった。

「うーん、誰かの墓とかそんなのか? こんな人の来ない場所に放置プレイってのも寂しい話だよなあ……」

 試しに石を持ち上げてみると、どうにか運べそうな重さである。純は石を引きずって、道の脇の通行人の目に触れそうな場所に石を立て掛けると、一仕事終えたような満足感を感じて額の汗を拭った。

「ふっ、ミッション完了。我ながらいい奴だよな、俺ってばよ」

 自画自賛していたその時、急に背筋を貫くような悪寒を感じて、純は振り返る。だがそこに人の姿など無く、生い茂る木々と隙間から差し込む光、そして蝉の鳴き声が響きわたるばかりである。

(なーんか嫌な気配っつうか、誰かにガン見された気分なんだけどなー。まあいいや)

 純は気を取り直して山道の終わりまで歩いたが、結局大した収穫はなかったと肩を落とし、疲れ始めてきた足の重さを感じながら、来た道を引き返していった。
 次に訪れたのは、大坪トンネルという場所で、さっきの名声切通のすぐ近くに位置している。このトンネルは全国でも有名な怪談話の舞台として知られており、トンネルの真上に火葬場がある事で、心霊スポットとしてのイメージがより強く広まっている。広まっている噂としては、女性の霊が車のボンネットに落ちてくる、後部座席に見知らぬ女が乗っている、トンネルの手前に女の霊が佇んでいると言った具合で、数えたらきりがないほど不吉な噂が絶えない場所であった。

「うーん」

 実際に現場を前にして、純はまたしてもため息をつく。日中は車の交通量も多く、トンネルの中を歩いてみたがやはり怖くもない。元々は古いトンネルのため、内部の壁などはレンガが積み重ねられて作られており、それがいかにも幽霊が出るという雰囲気らしいのだが、現在は防音や補強工事などが施されてほとんどそれらも見えなくなっている。肩すかしを食わされた気持ちでトンネルの中を引き返すと、外に出てすぐの所に、純と同い年くらいの、白い服を着た女が立っていた。

(おおっ!?)

 彼女を見て純は思わず足を止めた。幽霊かと思ったが、よく見れば普通の人間である。それでも純がガッカリしなかったのは、その女がレースとフリルの付いた真っ白いワンピースを着た、目を見張る程の美人だったからだ。髪は艶のある黒髪で、前髪を真っ直ぐに切りそろえ、腰まで伸ばした後ろ髪には一本の乱れもない。体つきはやや華奢にも思えるが、すらりと伸びた手足は均整が取れていて美しく、胸も程良い大きさに膨らんでいて、女性らしいラインをしっかりと備えている。どこか浮世離れしたような雰囲気と、彼女の涼しげで落ち着いた視線も相まって、使い古された表現ではあるが、深窓の令嬢という表現がぴったりだと純は思った。彼女は純に向けた視線を外さず、後ろに誰かいるのかと振り返ってみたが、辺りには自分以外に誰もいない。

(こりゃあもしかして、俺に一目惚れの、ドキドキ恋物語の予感ってか!?)

 と、全力で都合の良い妄想をしながら、純は興奮を隠しながら彼女の方へと近づいた。

「どーもこんちは。今日はいい天気だねー、暑いけど」

 まずは当たり障りのない挨拶で様子を見るが、彼女は返事をしない。

「さっきから俺の方見てるみたいだけど、なんか用ッスか?」

 やはり彼女は答えず、黙ってじっと純を見つめているだけである。

「あーっと……もしもーし?」

 彼女の顔の前で手を振ってみるが、型で押したように表情が動かない。純が言葉に困っていると、彼女はすっと腕を上げ、純を指差して口を開いた。

「そこ……危ない」
「へっ?」
「そこにいると危ないって言ってるの……横へどいて、三歩くらい」
「な、なんなんだ?」
「早く……言うとおりにして」

 彼女の声は小さめだったが、真っ直ぐに自分を見る瞳に妙な説得力を感じた純は、とりあえず言葉通りに横へと移動してみた。その直後、純が立っていた場所に彼の頭と同じくらいの石が落ちてきて、地面にぶつかり砕け散った。

「うおわわっ!?」

 顔から血の気が引いて行く純とは対照的に、彼女は瞬きひとつすらせずにこう続けた。

「あなた……タチの悪い幽霊が取り憑いてる」
「はあ? あ、あんた一体……?」
「今朝からずっと不吉な予感がしてたから来てみたけど……壁や崖の近くを歩く時は気をつけた方がいいわ……それじゃ……」

 彼女はそう言うと、くるりと背を向けて去っていく。純はなにが起こったのかさっぱり分からず、唖然としたままその場に立ち尽くしていた。




「――ってなわけでよ、ホンモノのミステリーに俺は遭遇したわけよ!」

 夕方、自分の部屋で興奮気味にまくし立てる純の話を、光太郎は引き気味に頷いていた。ベッドには光太郎の恋人で純とも幼馴染みであるはるかが腰掛け、久しぶりに集まった三人組の空気を微笑ましく思いながら話を聞いていた。ピンクの花柄をあしらったキャミソールと、ロールアップしたデニムのパンツから足を覗かせた、夏らしく清涼感のある服装がよく似合っている。はるかは両手でアイスレモンティーのグラスを持ち、ストローに口を付けながら、迫る純の顔を手のひらで押し返す光太郎を見てクスッと笑っていた。

「だーっ、わかったから落ち着けってば。もう一度最初から話せよ」
「だーかーらー、大坪トンネルに行ったら女がいて、俺にオバケが取り憑いてるとか言い出して、そしたらいきなり石が落ちてきて……って、ああああーーーっ!?」
「やかましいっつーの。なんなんだよ」
「名前聞き忘れたあああああっ! ぐうう、俺としたことが一生の不覚ッ!」

 純が両手を付いて床に頭を打ち付けていると、はるかが「あっ」と声を上げ、純に訊ねた。

「ねえねえ純くん、トンネルにいた女の人ってさ、綺麗な黒髪の人で、育ちの良いお嬢様って感じじゃなかった?」
「そうそう、まさにそれ! はるか知ってるのか?」
「うん。その人たぶん藤沢先輩だと思う。時々あの辺りを散歩してるって聞いた事あるし」
「藤沢? どっかで聞いたよーな聞かないよーな……ダメだ、思い出せねー」

 はるかの話によると、純が出会ったのは藤沢綾乃という名で、上倉学園の一年先輩であるらしい。彼女には強い霊感があるという噂があり、頼まれて始めた占いがよく当たると、女子生徒の間で評判になったらしいが、綾乃は元々目立ちたがらない性分だったらしく、そのうちに占いをやらなくなり、やがて皆もその事を忘れてしまった事を語った。

「でも純くんが藤沢先輩のこと知らないなんて意外だったなあ。すっごく美人だし、てっきり知ってるかと」
「オバケだの占いだのには興味無かったからなー。完全にノーマークだったんだよ。ちっ、惜しい事したぜ」

 悔しがっている純を尻目に、光太郎は微妙に気になった事を口にする。

「ところではるか、やけに詳しいな。その先輩と友達だったのか?」
「えっ、特に親しかったわけじゃないけど」
「その割に色々知ってるじゃないか」
「あ、一度占ってもらった事あるから」
「へえ、なにを占ったんだ?」
「そ、それはその……」

 はるかは光太郎と目を合わせたり逸らしたりしながら、顔を赤くする。

「えっと、ナイショ」
「なんだそりゃ」
「ちなみに、占いは当たったよ。えへへ」
「なに笑ってるんだよ、変な奴だな」

 きっと光太郎との相性占いだろうなと予想しつつ、純は光太郎の鈍さに「やってらんねー」と独りごちる。

「やいお前ら、イチャイチャすんのは俺が帰ってからにしろー。それよりも、例の藤沢先輩って女の人、俺に紹介してくれよはるか」
「でも、何年か前に一度会ったきりだし……」
「そこをなんとか! これはモノホンのネタだと、俺の勘が全力でシャウトしてんだよっ!」
「わ、わかったわよう。お願いすれば協力してもらえるかもしれないし。住所は卒業生の名簿に載ってたはずだよ」
「そうこなくっちゃ! 光太郎も一緒に来いよ。みんなで頼んで、ガチの幽霊呼んでもらおうぜ。最高の肝試しになるぞこれは、キヒヒヒ!」
「え、それは……ちょっと」

 幽霊を呼ぶと聞いて顔を引きつらせるはるかと、渋々といった表情の光太郎を連れて、純はトンネルの前で出会った女と思われる人物の家へと向かう事にしたのだった。




 大坪トンネルから二十分ほど歩いた場所に、手入れの行き届いた生け垣に囲まれた和作りの屋敷があり、立派な門に掲げられた木製の表札には、確かに藤沢と刻まれていた。呼び鈴を押してしばらく待つと、分厚い扉が軋んだ音を立てて開き、真っ白なワンピースに黒髪が映える女性が姿を現した。トンネルで会った女に間違いないと、純は光太郎とはるかに目配せする。

「あっ、さっきはどーも。俺、望月純って言うんだけど、藤沢綾乃さんッスよね」

 ワンピースの女性――綾乃は純の姿を見て一瞬目を丸くしたが、すぐに元通りの動かない表情に戻り、言った。

「どうしてここが……それに名前……」
「あ、後ろの友達に聞いたんで。俺ら上倉学園で一コ下だったんスよ」
「そう……」
「俺たちがここに来たのは、ある噂を確かめに来たんス!」

 純は興奮気味に、綾乃が持つという霊感について訊ねたが、彼女は目を伏せゆっくりと首を振る。

「悪いけど……興味無いから。噂は回りが勝手に言ってただけよ」
「そこをなんとか! 俺はなんとしても幽霊のヤローを激写したいんだ」
「忠告したのに……」
「は?」
「自分から危ない事に近づこうなんて……どうかしてるわ」
「オバケが怖くて写真が撮れるかっての。それよりさ、綾乃先輩の占いがよく当たるって聞いたんだけど」
「……」
「そこのはるかも昔、占ってもらってちゃんと当たったって言ってたぜ」

 純がはるかの方を見ると、はるかはこくりと頷いてから、綾乃に向かってお辞儀をした。

「そうだ、いっちょ俺も占ってくんねーかなあ? その霊感ってやつが本物かどうか、俺も確かめてみたいッス」
「占いは……」
「ま、俺の安泰な将来は揺るぎないだろーけどな、わっはっは。てなわけでお願いしまーっす」

 綾乃は困ったような表情を浮かべてうつむいていたが、やがて顔を上げ、脳天気に笑っている純の生年月日を訊ねた後、彼の顔をまじまじと観察しながら喋り始めた。

「あなたは楽天家で脳天気で落ち着きがなく、思いつきで行動するタイプ……噂話が好きで、情報を集めることが得意……雑誌の記事とか作る事に向いてるんじゃないかしら」

 ボソボソと小声で呟かれる言葉に、光太郎とはるかは「おお、当たってる」と口を揃える。

「ば、ばっか、たまたま誰かに俺の話聞いてたかもしんねーじゃんか。なにしろ俺は有名だからなっ」

 口を尖らせる純に、確かにそうかもとはるかも苦笑する。

「じゃあさ、恋占いはどう? 純くんの素敵な人がいつ現れるか見てもらいなよ」
「お、おう。あーっと、じゃあそっちも頼んます」

 綾乃は再び純の顔をじっと見つめた後、はるかの方へチラリと視線を向けて、

「あなたは報われない恋をして……まだ気持ちを捨て切れてないのね……いつも笑っているけど、本当の気持ちをその裏に隠している……」
「え? そうなの? ねえねえ、誰なの? 純くんが好きな人って」

 興味津々に聞き返してきたはるかを、綾乃はじっと見つめ返す。

「彼が好きなのは……ごく身近にいて、家族みたいに育った――」
「だああああーーーっ!」

 純は突然大声を出し、綾乃の手を引いて猛然と走り出す。数十メートルほど離れた所で、純はひそひそと小声で彼女に話しかけた。

「ちょっ、なんで知ってんだ!?」
「なにが?」
「今の話に決まってんだろー。誰にも喋ってねーはずだぜ」
「だって……そう見えたんだもの」
「マ、マジかよおい……」

 純はわなわなと身体を震わせたかと思うと、綾乃の華奢な肩を掴んで叫んだ。

「すっげぇええええええ! ホントにこんな事あるんだな! マジ超能力じゃん!」
「……痛い」
「あっ、悪りぃ。それより幽霊が見えるってのもホントなんだよな?」

 純の問いかけに、綾乃はこくりと頷く。

「俺、どーしても幽霊を撮影したいんだ。頼む、協力してくれよっ!」
「それはダメ」
「な、なんで?」
「興味無いって言ったでしょ……」
「そこをなんとか!」
「ダメ」

 いくら頼み込んでも、綾乃は首を振るばかりだった。やがて彼女はそそくさと屋敷の中に戻ってしまい、取り残された純は閉じた門の前で立ち尽くしていた。

「断られちゃったね。藤沢先輩も嫌がってたみたいだし、諦めよっか」

 純は肩を落としてうなだれているように見えたが、急に顔を上げ、拳を握りしめて笑い出した。

「はーっはっは、俺がこの程度で諦めるかっつーの。むしろ燃えてきたぜ! 必ず綾乃先輩を説得して幽霊と遭遇してやるからな! 待ってろよ!」

 断られて落ち込むどころか、純は余計にやる気を出したようで、絶対に諦めるもんかという不屈の笑みを浮かべている。一度やると決めた純のしつこさをよく知っている光太郎とはるかは、互いに顔を見合わせて苦笑していた。




 それから一週間、純は毎日綾乃の家を訪れては、粘り強く交渉を続けた。最初の数日は、純の顔を見ただけで綾乃は家の中に戻ってしまったが、まったく懲りる様子もなく現れる純に、綾乃も呆れを通り越した表情を見せるようになり始めていた。

「よっ、綾乃先輩。今日も来たぜ」

 いつもの白いワンピースに紐のサンダルを履き、麦わら帽子を被った綾乃が門を出ると、そこにはいつものように軽い口調で挨拶をする純の姿があった。綾乃は麦わら帽子の端を少し持ち上げ、自分より背の高い純を少し見上げて言った。

「あなた……望月純って言ったっけ」
「おうよ! 宵ヶ浜のヒーロー、みんなのアイドルもっちーとは俺のことだぜ。綾乃先輩も気軽に純って呼んでくれよな」
「……純って変わってるのね」
「そうかあ? どこにでもいる良識人だぜ」

 しれっと返ってきた言葉に小さなため息をつき、綾乃は純の横を通り抜けて歩き出す。純も慌てて後を追い、綾乃の横に並んで歩き始めた。

「外出なんて珍しいッスね。今日はどこへ?」

 歩きながら純が訊ねるが、綾乃は返事をせず、ただ黙々と歩き続ける。純はめげずにあれこれと話しかけたが、綾乃は口を固く閉ざし、全て無視されてしまった。がっくりと肩を落としていた純が顔を上げると、いつの間にか小高い山の手前に来ており、目の前の短い坂道を見上げると、そこに広い敷地の寺があった。綾乃は寺へ向かって坂道を上って行くので、純も彼女の後に続いた。寺の門に建てられた石の柱には「法連寺」と文字が刻まれている。本堂はかなり古びてはいるものの立派な造りをしていて、素人目にも結構な歴史があるのだと言う事は純にも想像出来た。綾乃は本堂の脇を通り抜けて裏側へと回ると、その先に生い茂る竹林の中へと進んでいった。綺麗に手入れがなされ、細かな砂利が敷き詰められた道を歩くと、ざくざくと砂利を踏む音が響いて心地よい。ほどなくして竹林が開けると、ぽつんと佇む一軒家へと辿り着いた。本堂ほどではないが、こちらも年季が入った木造の平屋で、引き戸の玄関の前にやってくると、綾乃はくるりと振り向いて純を見た。

「……ここまで付いてくるなんて思わなかった」
「へっ? いやだって、なんも言われないから別にいいのかなーって」
「常識って言葉……知ってる?」
「そんなの当たり前っしょ。だがしかーし、俺は常識なんて型にはまる小さい男じゃあないぜ、だっはっは」

 綾乃の皮肉にも気が付かず、純は腰に両手を当てて笑っていた。半ば諦めたようにため息を吐いた綾乃は、引き戸の玄関を開けて中に入り、家の人に聞こえているのか心配になるような声で挨拶をした。しばらくすると家の奥から返事があり、藤色の着物を着た中年女性が現れ、綾乃に微笑みかけていた。白髪が混じって灰色に見える髪を結い上げており、歳は四十代か五十代くらいである。女性は玄関の外で立ちぼうけをしている純を見つけると、綾乃に訊ねた。

「あら。外の子はお友達?」
「ううん、違――」

 綾乃が首を振って否定しようとした瞬間、純は素早く二人の間に割って入りまくし立てる。

「そーなんスよ! 実は俺、綾乃先輩の後輩で、今日は見学で付いてきたんですよ!」
「あら、そうだったの。私は綾乃の叔母で藤乃といいます。こう見えてもここの住職をしているのよ」
「俺、望月純って言います。寺の奥とかこういう場所来たの初めてだけど、なんか面白そうッスねー」
「若い子はお寺に興味がないと思っていたから嬉しいわ。なにもない所だけど、お茶でも飲んでいきなさい」
「あざーっす!」

 とっさに口を突いて出た言葉だったが、思いがけず喜ばれたようで、純は心の中でガッツポーズをする。背中に刺さる視線がちくちくしたが、純は構わず上がらせてもらう事にした。広い座敷に案内された純は、敷かれた座布団の上に座って、お茶菓子を用意しに行った藤乃を待っていた。座敷の中をキョロキョロと見回すと、大きくて立派な須弥壇があり、観音菩薩の像が祭られている。ちなみに須弥壇というのは、寺院などにある豪華で大きな仏壇の事を指す。あたりに漂う抹香の匂いを嗅ぎながら、住職のイメージ通りな家に住んでいるんだなと納得しつつ、純は綾乃に話しかけた。

「あのー、綾乃先輩。今更だけど、こんな所へなにをしに来たんスか?」

 綾乃はまるで座禅の修行でもしているかのように固まったまま動かず、純の質問にも答えない。苦笑を浮かべながら純が頭を掻いていると、お盆に氷を入れたグラスとお茶菓子、そして茶色い液体が入ったボトルを乗せた藤乃が戻ってきた。藤乃は二人にグラスを差し出し、ボトルに入っていた茶色く透明な液体を注ぐ。

「おっ、麦茶っすね! んじゃ早速、いただきまーす」

 純はごくごくとグラスの麦茶を飲み干し、ぷはーっと最高の笑顔を見せる。

「んまい! やっぱ夏はこれが無いと始まらねーよなー!」
「ふふ……面白い子ねえ」
「俺ってば元気と明るさが取り柄ッスから!」
「それにしても以外だわ。綾乃にこんな明るい友達がいたなんて」
「そうなんスか?」
「ええ、この子ったら見ての通り無口でしょ。人付き合いも苦手だって言うし、ずっと気にはしてたのよ」
「へえ……ってか、綾乃先輩は昔からここに通ってたんスか?」
「この子は昔から古い物が好きでねえ。いつも一人で蔵にこもったりして、夢中になるといつまで経っても出て来ないのよ。色々な事を教えたりもしたけど、この癖だけは相変わらずね」
「おお、熱中するタイプなんスね。もしかして占いなんかもここで習ったとか?」
「そう、私が教えたのよ。お寺の住職なんてやっていると、檀家から占いを頼まれることも多くてね。綾乃には人と話すきっかけになると思って教えたんだけど……」

 住職が思い出すように語ろうとするのを、綾乃が咳払いで遮り、ぼそっと呟く。

「そんな話……しなくていい」

 いつもと同じ言い方に聞こえたが、綾乃の顔をよく見ると、どこか不愉快そうな表情を浮かべている。気まずさを感じた純は、話を逸らすために別の質問をすることにした。

「えっと、じゃあ今日は親戚の家に遊びに来ただけって事なんスかね?」
「ああ、そうじゃないのよ。大学の研究で古い文献や資料が欲しいって言うから」

 住職は席を立ち、しばらくすると大きめの包みを抱えて戻ってきた。そっと布を外すと、漆塗りの木箱の中に、見るからに古びた書物や道具がいくつか収められていた。住職の話によると、このどれもが数百年も昔の物であり、文化財として指定されている貴重品だという。綾乃は表情こそあまり変化がなかったが、それを食い入るようにじっと見つめ、どこか感慨に耽っている様子だった。

「こんな大昔のがまだ残ってるなんてすげえや。これ、お宝鑑定したらすげえ値段付くんじゃあ……うひょーっ、わくわくしてきたぜ」

 純が下心を覗かせて顔を近づけると、綾乃はひょいと木箱を取り上げてしまう。

「やめて。お金なんかじゃない……」
「ほえ?」
「この時代の人はどんな暮らしをして、どんなことを考えていたのか……調べて、想像して……そうすると、いろんな事を感じられるの……」

 漆塗りの箱を大切そうに抱え、綾乃はそう呟いた。純は急に自分が恥ずかしくなり、バツが悪そうに頭をボリボリと掻いた。

「っと……あ、そうか」
「?」
「その声ってのを、例の霊感で聞いてるんだな!」

 純がポンと手を打つと同時に、沈黙が横たわる。綾乃は相変わらずの無表情だったが、藤乃は得意げな顔の純を見て、口元を手で押さえながらクスクスと笑い出した。

「確かに綾乃は幽霊を見る力があるけれど、それとは関係ないのよ。それにしてもやあねえ、例の霊感だなんて……ふふふ」
「はうあ!?」

 ようやく気付いた純は、自分の発言に頭を抱えて顔を引きつらせる。知らずとはいえ親父ギャグを口にしてしまったのは、彼にとってかなりの恥と屈辱であった。

「ぐうう、俺としたことがこんなスベり方をっ」

 純が落ち込んでいる間に、綾乃は木箱の蓋を閉じ、布で包み直して立ち上がる。

「ありがとう叔母さん……今日はこれで……」
「ええ、気をつけて帰るのよ」

 玄関へと歩いて行く綾乃を見て、純も慌てて立ち上がり、藤乃にぺこりと頭を下げた。

「ども、お邪魔しました。麦茶ごちそうさまッス!」
「あ、ちょっと待ちなさい望月くん」
「はい?」

 藤乃は綾乃の姿が見えないことを確かめると、優しげな微笑みを浮かべて言った。

「これからも綾乃と仲良くしてあげてね。あの子が友達連れてくるなんて、本当に珍しい事なのよ」
「はっはっは、任せてくださいっ。例え嫌がられても仲良くしますよ!」
「ふふ、よろしくね。またいつでもいらっしゃい」

 純はもう一度お辞儀をし、ドタドタと足音を立てて綾乃の後を追いかけて行く。藤乃はその姿を眺めながら、眼を細くして微笑んでいた。




 翌日も法連寺へと向かう綾乃について行った純は、藤乃の座敷で文書とにらめっこをする綾乃を退屈そうに眺めながら、大きな欠伸をしていた。文書に目を通している綾乃は話しかけても返事がないので、純はひとまず諦めて、法連寺の中をぐるりと見て回ることにした。本堂には貴重な彫刻や絵画、工芸品などが収められており、文化財として指定され保護を受けているという。これらは一体どれくらいの歴史があったのだろうと想像しながら、次の記事に使えるかも知れないなとも考えていた。一通りを眺めてから綾乃の所へ戻ってみると、彼女が古びた文書を閉じ、顔を上げた所だった。

「おっ、観察は終わりッスか?」

 綾乃はいつものように、無言で頷く。

「で、なにが書いてあったんスか? もしかして埋蔵金のありかとか!?」
「違う」
「あ、さいですか」
「これは……三百年くらい昔の日記……」
「日記かあ。なんか面白話でも書いてあるんスか?」

 綾乃の話によると、この日記に書かれていたのは、とある出家僧の告白だった。彼は元々淳之介という名の若侍で、駆け落ちの約束をした恋人がいたのだが、事前にその事が身内に知られてしまい、待ち合わせた山道に行くことが出来なかった。翌日、淳之介は恋人が山中の崖に転落して命を落としたという話を聞き、彼はその事を深く嘆き、責任を感じて出家したという。日記には彼の後悔と悲しみが綴られていたと綾乃は語った。

「ふーん、なんかドラマみてーな話だなあ。会いに行けなくてしかも彼女が死んだってのはキツイや」
「他にも日記が残ってるかも知れないから……また探してみる」
「しかし綾乃先輩、マジに熱心なんだな。ちょっと羨ましいぜ」
「羨ましい?」
「俺、そこまで熱中出来るモンがないっつーか」
「そう……」
「昔は俺にもあったんだぜ。青春まっただ中、ってやつがさ」
「なにを……やってたの?」
「野球。こう見えても地元のリトルリーグじゃエースだったんだぜ。上倉の盗塁王、かっとびのもっちーってな」
「へえ……凄いのね」
「まあな! って言いたいけど、中学の時に野球はやめちまったんだ」
「どうして?」
「あーっと……そこはほら、色々あったんだよ。あれ以来、俺の人生もパッとしねえなー」
「ふうん……」

 はあ、とため息をついた後、純はいつもの調子に戻って顔を上げ、肝試しの事について切り出した。

「で、そろそろ俺に協力してくれたりしねーっスか?」

 綾乃は無言のまま、ふるふると首を横に振る。

「やっぱダメかーっ。やっぱり文化財とオバケでは重みが違うのかーっ」
「そんな風には……言ってない」
「だが俺は諦めねー! 必ず綾乃先輩をウンと言わせ――!」

 言いかけたその時、二人のすぐ近くにあるタンスの上で、黒塗りの壺がぐらりと動いた。もちろん地震は起きていないし、座敷の中に風など吹いていない。壺の揺れは激しさを増していき、ついに純と綾乃がいる方へ落ちてきた。

「おわっ、危ねえ!」

 純はとっさに綾乃を押しのけ、両手を伸ばして壺を受け止めようとした。しかし手が滑って頭をぶつけてしまい、鈍い痛みと共に視界が歪む。がしゃん、と乾いた音が聞こえたと思ったときには、純は大の字になって畳に倒れ込んでいた。

「純、純! しっかりして……!」
「うう……痛てて」

 呻き声を出しながら身体を起こす純に、綾乃は安堵の表情を浮かべたが、純の額から血が滴り落ちるのを見ると、口を両手で押さえて青ざめてしまう。

「血が……!」
「大丈夫大丈夫、なんともねーって。実はちょっと痛いけど……それよりなんで急に壺が」

 タンスの上に目をやるが、もちろんそこにはなにもいない。だが綾乃は、天井と壁の境をじっと見つめて呟いた。

「そこに……いるわ」
「い、いるってなにが?」
「純に取り憑いてる幽霊よ。こないだの石と同じ……気付いて欲しくて壺を落としたんだわ」
「うえっ、本当に俺を狙ってんのかよ!? あ、綾乃先輩が言った通りじゃねーか……」

 ゴクリと息を呑む純を見て、綾乃は表情を曇らせて悲しそうな顔をすると、純から離れて行く。不思議に思って純が近づくと、同じだけ綾乃は遠ざかってしまう。

「ちょっ、どうしたんスか? なんで避け……」

 綾乃は黙ったままで、返事をしない。純が手を伸ばそうとすると、綾乃はびくっと身体を震わせ、逃げるように走り去って行く。純は取り残されたまま、一人呆然としていた。やがて物音を聞きつけ、藤乃が座敷にやって来た。

「なにか物音がしたけど……まあ」

 畳に散乱する壺の破片と、額から血を流す純を見て、藤乃はただならぬ雰囲気を察して表情を引き締めた。

「なにがあったの?」
「えっと、急に壺が落ちてきて……俺は幽霊に目を付けられてるって綾乃先輩が言ってたんスけど、その話してたら急に逃げ出しちまって。一体なにがなんだか」
「やっぱりあの子、まだ怖がっているのね」
「怖がる? なにをッスか?」
「そうね……少し私の話を聞いてくれる?」

 救急箱から取り出したガーゼと包帯で純の手当をしながら、藤乃はぽつぽつと綾乃の昔話を始めた。綾乃が上倉高校の二年生になった頃、ひょんなことから始めた占いが評判になった事があった。綾乃の占いはよく当たり、最初のうちは物珍しさも手伝って、綾乃の噂は広まり、彼女は人気者となっていった。ところがしばらくすると、占いがあまりにも的中する事が、逆に気味悪がられるようになってしまった。霊感が鋭いことも批判の的となり、心ない陰口を言う者まで現れ、傷ついた綾乃は以前にも増して心を閉ざし、塞ぎがちになってしまったというのである。

「望月くんは気が付いたかしら?」
「えっ、なにがッスか?」
「あの子、笑わないでしょ」
「そういや……確かに」
「私がこんな事を言うのも気が引けるけど……望月くんなら綾乃の心を開いてくれそうな気がするのよ。あの子の事……お願いしてもいいかしら?」

 純は自分の胸をドンと叩き、鼻息を荒げて頷く。

「むぁーかせてくださいって! 人を笑わせるのは俺の使命みたいなもんスよ! 綾乃先輩がそんな難攻不落の要塞なら、余計に燃えるってモンだぜ!」
「ありがとう望月くん。きっと綾乃は蔵の方にいると思うから、迎えに行ってあげて」
「おーっす!」

 平屋の外に出て寺の蔵に足を向けると、藤乃の言葉通りに綾乃はいた。壁にもたれかかったままうつむき、遠目からでも落ち込んでいるのが分かるほどである。純はそっと綾乃に近づくが、今度は逃げたりしないようである。綾乃と同じように蔵の壁にもたれると、純はなにも言わず、綾乃が口を開くのをじっと待った。

「気味が悪いって……思ったでしょ」
「おわっ、ビックリした! 喋るなら先にそう言ってくれよなー」
「……」
「すんません冗談ッス。で、なんだったっけ」
「純も私のこと怖いでしょ」
「なんで?」
「なんで、って……嫌じゃないの?」
「なにが?」
「幽霊が見えたり……良くないことが身に降りかかって……怪我もしたじゃない」
「んなアホな。むしろすげーと思うんだけどなあ、俺」
「え……」
「占いも幽霊が見えるのも立派な特技だろー。他の誰も真似できないものがあるなんて、俺にとっちゃ羨ましい限りだぜ」

 純の思いもよらない返事に、綾乃はキョトンとしていたが、やがて悲しそうな表情を滲ませて視線を落とす。

「他の人は違ったわ……みんな私の事を怖いって言ったもの。幽霊が見えたり、あんなに占いが当たったりするのは普通じゃないって。あいつも実はオバケなんじゃないかって……」
「けっ、ふざけんなっつーの。そいつら頭おかしいんじゃねーのか?」
「占いはいい事ばかりじゃないわ。悪い結果が出ることもあるから……」
「だからって急に手のひら返すなんて最低だぜ。占いの結果と綾乃先輩とはなんの関係もねーじゃんか。ちっ、その時俺がいれば、ぜってーそんな事言わせないのによー」
「純……」

 綾乃は涙を喉に詰まらせたように言い、それきり押し黙ってしまったので、純は仕方なしに彼女を連れて法連寺を出た。同じ場所でじっとしていると、また幽霊がやって来て悪さをされるかも知れないと思ったからである。外に出ても綾乃は沈みがちだったので、気を紛らわせようと純があれこれ喋っているうちに、いつの間にか綾乃の自宅の前まで辿り着いていた。もう少し喋っていたかったが、今日はそっとして置いた方がいいと思った。綾乃が門の向こうに姿を消すのを見届けると、純もズボンのポケットに両手を突っ込んで、自宅に足を向けたその時だった。

「……待って」

 後ろから声がするので振り返ると、麦わら帽子を胸の前で抱えた綾乃が門の中から出て来て、純に近づいてきた。

「明日も……来るの?」
「まあな。綾乃先輩が協力してくれるまで、俺は諦めねーぜ」

 その言葉を聞いて、綾乃は目を伏せる。風になびく髪と長いまつげに見とれていると、やがて綾乃はゆっくりと目を開けて少しだけ眉を寄せ、仕方がないといった表情で言った。

「わかったわ……肝試しの案内……手伝ってあげる」
「マジで!? いやっほう! じゃあ早速今夜にでも――」
「それはダメ」
「な、なんで?」

 出鼻をくじかれた純は、お笑い芸人のようにがくっと転けてから顔を上げる。

「幽霊が憑いてるって言ったでしょ……またいつ危ない目に遭うか分からないわ」
「ぐああっ、そうだった! どこだ、どっから俺を見てるんだコノヤロー!」

 背筋に冷たいものを感じて周りを気にする純の肩を、綾乃はつんつんと指先でつつく。

「まだ時間……ある?」
「あ、あるある! ありまくりッスよ!」
「私に付いてきて。上手く行くか分からないけど……除霊してみる」
「そ、そんな事出来るのか!?」

 綾乃に従い、純は藤沢家の門をくぐり足を踏み入れる。外から見る以上に藤沢家の敷地は広く、手入れされた庭には石灯籠や錦鯉の泳ぐ池があったりと、まさしくお金持ちの屋敷といった風情が漂っていた。庭に劣らず立派な屋敷に上がると、純は広い座敷の中心に座らされ、綾乃は彼の回りにしめ縄やロウソク、お香にお札といったまじないの道具を持ってきて、純の回りに並べ始めた。

「あのう、綾乃先輩。なにをしてるんスか?」
「動かないで。結界を作ってるの……」
「け、結界?」
「幽霊から身を守る壁よ……そこにいれば安全だから」
「お、おっす」

 道具を並べ終えた綾乃は、座敷のふすまや戸を全て閉じると、しめ縄を隔てた純と向き合って正座をし、ぶつぶつと呪文のようなものを唱え始めた。初めのうちは彼女の声が響くだけでなにも起こらなかったが、やがて部屋中の戸ががたがたと音を立てて揺れ、異様な雰囲気が辺りに充満し始めた。霊感というものをおよそ持ち合わせていない純ですら、背筋がぞっとするような気配を感じ、慌てて辺りを見回した。彼の目の前には火の付いた線香の束が置かれていたが、そこから立ち上る煙の向こう、ちょうど綾乃と自分との間に、ぼんやりと人の気配のようなものが感じられた。

「だ、誰かいんのか?」
「来てるわ……純に取り憑いてる幽霊ね」

 なにかが目の前にいる事はわかったが、どうやっても姿は見えない。綾乃の目に映っているのも、人の輪郭をしてはいるが、顔立ちや服装がどうなっているのか分からない、影の塊みたいな姿だった。

「マジ幽霊のお出ましかよ……って、しまったカメラ持ってねぇっ!?」
「騒がないで純……あまり刺激してはダメ」
「あ、悪りぃ……」
「この幽霊が誰で、どうして純に取り憑いたのか……訳を聞いてみるわ」
「で、出来るのか?」

 綾乃はこくりと頷くと、ぼそぼそと聞き取れない声で幽霊に向かって話しかける。幽霊は綾乃の問いかけに答えるように、黒い輪郭をゆらゆらと動かした。

「この人……ずっと昔に死んだ……女の人みたいね」
「ちょっ、俺は女に恨まれる憶えなんかないぞ」
「純を待ってたって言ってる。ずっと……ずっと昔から待っていたって」
「はあ? どういう意味だ?」
「分からない……でも、そうとしか答えてくれないの」
「とりあえずさ、俺なんかに構ってないで迷わず成仏するように言ってくれよ」
「うん……やってみる」

 綾乃は再びぼそぼそと呟きながら、幽霊に語りかける。しばらくはさっきと同じで、ゆらゆらと黒い輪郭が動いているだけだったが、突然部屋中に金切り声が響き渡り、純は思わず腰を抜かして耳を塞ぐ。

「うわわっ、どうしたんだ急に!?」
「ぜ、絶対に離れない、邪魔するなら祟ってやるって……ダメ、話が通じない」
「勘弁してくれよおいっ! こんなのに好かれたって嬉しくねーぞ!」

 耳をつんざく声はさらに激しさを増し、部屋の空気が重く不気味に震えている。純が頭を抱えて嘆いていると、綾乃はすっと立ち上がり、手にした小袋から取り出した粉のような物を、幽霊めがけて投げつけた。

「!!!!!!!?」

 粉を浴びた幽霊は悲鳴に似た声を発し、やがてすすり泣くような音を残してすうっと消えていった。部屋の不穏な空気が消え、元通りの静寂が訪れた。唖然としている純の目の前で、綾乃は糸が切れた人形のように、その場にくずおれた。

「だ、大丈夫ッスか綾乃先輩!?」

 純はしめ縄の結界を乗り越え、倒れそうな綾乃の身体を支えた。力の抜けた身体はずしりと重く、脳裏に不安がよぎってしまうが、間もなく彼女は目を開けた。

「平気……少し気が緩んだだけ」
「な、ならいいけど。ところで幽霊はどうなったんだ? 成仏したのか?」

 純の問いかけに、綾乃は申し訳なさそうな表情を作り首を振る。

「逃げただけ……きっとまた来ると思う」
「うへえ、どうすんだよこの状況。俺は幽霊を激写してーけど、取り憑かれるのはまっぴらゴメンだっつーの」
「ごめんなさい……上手く行かなかった」

 そう呟いて謝る綾乃の言葉と表情は、まるで自分自身を呪うかのように深刻で痛々しく感じられた。

「そ、そんなマジになるなよ。また追い払えばいいだけだろ?」
「でも……次はもっと危ない目に遭うかも知れないし……そうなったら私のせいだから」
「ふっふっふ、こう見えても俺は昔、結構ヤンチャもやったんだぜ? 幽霊なんぞにビビるほどヤワじゃねーって。だからほら、そんな落ち込むなよ。それに案外、悪い事ばかりでもないぜ?」
「?」
「あの幽霊をなんとかするまで、綾乃先輩から離れられない理由が出来ちまったしな、へへへ」

 綾乃を元気づけようと、純はニッと歯を見せて笑顔を作る。綾乃の表情は相変わらずだったが、彼女の目には明るい色が差し込んでいるように思えた。純がじっと綾乃を見つめていると、やがて綾乃は顔を赤くして目を逸らしてしまう。

「あれ、どっか具合悪いのか? 顔が赤いぞ」
「べ、別に……なんでもない」

 綾乃は少し慌てたように純から離れると、タンスの引き出しを探って小さなお守り袋を取り出し、純に手渡した。

「これ……持ってて。護摩木の灰や清めの塩とか、施餓鬼米を混ぜた物が入ってる」
「胡麻に博多の塩におかきに……なんだって?」
「そうじゃなくて魔除けよ……幽霊を成仏させるまで持ってて。きっと純を守ってくれるから……」
「おうっ、綾乃先輩だと思って肌身離さず身に付けまくってやるぜ!」
「なに言ってるのもう……」

 お守りの紐を首に掛けながら純が笑うと、綾乃は照れて顔を赤くする。綺麗に切りそろえられた前髪の奥で、少し小首を傾げるようにうつむく綾乃の表情は、素直に可愛い物だと純は思った。最初の頃は人形のように表情が変わらず、どこか人を寄せ付けない印象の綾乃だったが、今は普通の女の子と同じように、様々な感情を表に出す事を純は知っていた。最後まで申し訳なさそうにしている綾乃を励まし、その日は一度帰る事にした。


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