夏のアルバム

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雛子(前編)


 半月ほどが経ち、俺にはちょっとした習慣がひとつ増えた。
 雛子ちゃんは今まで父親の車で送り迎えをしてもらっていたが、二年生になってからは電車通学に切り換えたらしい。その結果俺たちの目の前で倒れてしまったわけだが、彼女自身はそれでも電車通学を続けたいと強く希望し、両親ともずいぶん話し合ったそうだ。事情を聞いた俺たちは、響先生にこっそりお願いされた事もあって、雛子ちゃんの通学の付き添いを引き受けることになったのだ。駅から学校までのわずかな間だし、また倒れられるよりはずっといい。そうして何日か過ぎたわけだが、はるかは放課後に水泳部の部活があるし、純は懲りずに新入生の情報収集とかで消えてしまうので、下校時間の付き添いはいつも俺の役目だった。

「お、お待たせしました」
「よし、行こうぜ」

 鞄を両手で持ち、小走りでやってきた雛子ちゃんを促し、俺は先に歩き出す。いつも俺の隣を歩くのははるかや純くらいだったので、ちょっと嬉しい。とはいえ校舎から駅まで歩いて五分程度。軽い雑談を交わしてすぐに終わる距離だ。駅のすぐ目の前、江ヶ電の線路を挟んですぐ向こうは宵ヶ浜の砂浜で、放課後になると運動部の連中がダッシュやマラソンによく使っている。そんな中に水泳部の姿もあり、トレーニングウェアに着替えたはるかの姿が見える。せっかくなので雛子ちゃんを連れて砂浜へ降り、準備体操中の彼女に声を掛けた。

「よう、今日は走り込みか」
「やっほー光太郎。雛子ちゃんも、その後どう?」

 俺の少し後ろに立っている雛子ちゃんを覗き込みながら、はるかは微笑む。

「はい、光太郎先輩はいつもちゃんと待っててくれます。私とろくて、いつもこんな時間になってしまって」
「いーの、どーせヒマなんだから。少しくらい仕事させてないと腐っちゃうわよ。あ、もうこの辺とか傷み始めてるかも知んないけど」
「買い置きの野菜か俺は」

 俺がむっとして睨むと、はるかは「べぇ」と舌を出す。そんな俺たちの横で、雛子ちゃんはため息をついていた。

「和泉先輩って運動も出来るしスタイルいいし、美人で……いいなぁ」
「ええっ、そんな事ないってば。雛子ちゃんだって可愛いよう。なんか、守ってあげたくなるっていうか、そういうのうらやましいって思うもん」
「そ、そうでしょうか?」
「うんうん、もっと自信持っていいよー」
「ありがとうございます。私、和泉先輩みたいなお姉さん欲しかったです」
「わー、嬉しいなあ。私も雛子ちゃんみたいな妹欲しかったよー」

 気付けば、なんだか女同士で盛り上がっている。タイプの違う二人だが、上手く噛み合っているようだ。しばらくしてマラソンが始まり、俺たちははるかの後ろ姿が小さくなるまでそこで見送った。

「凄い……あんなにも遠くまで」

 雛子ちゃんは憧れと寂しさが入り混じった声で言い、手のひらで自分の胸元に当てていた。

「毎日鍛えてるからな、連中は」
「あのう、クラスの子から聞いたんですけど、和泉先輩って水泳部の凄い選手だとか」
「去年のインターハイで二位。今年も上位争いは確実って言われてるよ」
「ええっ」
「チビの頃から水泳だけはずっと続けてたからな。他の連中とは地力が違うさ」
「わあ、やっぱり凄いです、和泉先輩って」
「あいつは偉いよ。自分の目標をちゃんと見てる」
「自分の目標……ですか?」
「俺もいつまでもふらふらしてないで、なにか見つけないとなあ」

 俺は呟きながら駅の方へと引き返し、雛子ちゃんが電車に乗り込むのを見届けた。




 雛子ちゃんの送り迎えにもすっかり慣れた頃、彼女を待つ俺にひとつの疑問が浮かんできた。下校時間、いつも三十分か四十分ほど待たされる。授業が終わって普通に帰り支度をするだけなら、こんなにも時間はかからない。そこで放課後になってすぐ、雛子の教室を訪れてみると、彼女はいた。カバンを持って教室を出てきた所で、俺は雛子ちゃんを呼んだ。

「よっ」
「ど、どうしたんですか先輩」
「いつも合流するのが遅いから、なにしてるのかなって」
「あう、そ、それは」

 俺が訪ねると、雛子ちゃんは申し訳なさそうにうつむく。少し困った顔でしばらく俺の顔をちらちらと見ていたが、やがて「じゃあ付いてきてください」と歩き出した。一階に下りた後、下駄箱とは逆の方向に向かい、渡り廊下を通って第二校舎へと進む。さらに校舎を横切ると、備え付けの靴に履き替えて裏庭へと出た。裏庭の隅には小さな小屋があり、金網越しに数羽のウサギやアヒルが飼われている。

「あの、実はこの子たちの世話をしてて……」
「なんだ、雛子ちゃんは飼育係だったのか」
「いえ、飼育係ではなくて動物行動学部です。長いので動物部と言っていますけど」
「育てる以外に目的があんのか?」
「先輩は刷り込みってご存じですか?」
「えーと、確か卵から生まれたヒナが、最初に動いたものを親と思うって奴だっけ」
「正解です。他にも合図をしてご飯をあげるのを繰り返すと、学習して合図をしただけで集まってくるようになるとか、動物のそういう行動を研究してるんです」
「へえ……で、こいつらを君一人で面倒見てたのかい?」
「本当は順番に当番が決めてあったんですけど、そのう」
「まさか他の連中がサボってるんじゃあ」
「あわわ違います、そうじゃないんです。早く懐いてもらおうと思って一生懸命やってたら、この子たち私だけに懐いちゃって。それで毎日様子を見に来るようにしてるんです」

 動物小屋の隣には小さな物置があり、扉を開けてみると動物の世話をするための道具や、えさの袋が置いてある。興味がわいた俺はえさ袋を手に取り、雛子ちゃんに聞く。

「なるほどねえ……えさくらいなら俺がやっても大丈夫だよな」
「は、はい。たぶん」
「じゃあ扉の鍵を開けてくれるかい」

 小さな鍵を使って扉を開けてもらうと、俺は小屋の中へ足を踏み入れる。小学校や中学校で見た動物小屋は臭く汚いものだったが、ここは雛子ちゃんが手入れをしているおかげか、ずいぶんと綺麗だし臭いもひどくない。小屋の中は仕切りがしてあって、ウサギが住んでる場所とアヒルが住んでいる場所が分けられている。まずはウサギの部屋に入ったが、連中は俺を警戒してか、隅っこの方に集まってじっとしている。暴れたりはしていないので、食べ残しを片付けて新しいえさを入れてやり、ウサギ部屋を出る。雛子がウサギの名を呼んで合図をすると、じっとしていたウサギたちはすぐにえさに集まって食べ始めた。

「ほんとだ、よく馴れてる。次はアヒルの方か」

 アヒルの扉も開けてもらい、俺は中に入る。こっちは落ち着きなく動き回り、ギャワギャワと声を上げているが、これしきでひるむ俺ではない。食べ残しを片付け、新しいえさを入れ物に入れてやったその時。

「あっ!」

 雛子ちゃんの声に俺が顔を上げると、半開きになった扉の外に一番大きいアヒルが出てしまっているではないか。捕まえようと俺が手を伸ばすと、大きいアヒルは俺の指先に食いついてきやがった。

「痛ででで!?」

 丸い形をしていてもくちばしは固く、噛まれると痛い。思わずふりほどくと、アヒルは羽をばたつかせて逃げてしまった。

「ま、待って」

 雛子ちゃんはアヒルを追って走り出すが、お世辞にも足は速いとは言えず、アヒルは彼女の手をすり抜けてあっちへこっちへ飛び跳ねている。雛子ちゃんは息が上がってしまったらしく、仕方なく俺が小屋の外に出て追いかけた。ところがアヒルは俺の想像以上に達者な動きで逃げられてきりがない。野球のヘッドスライディングの要領で一気に飛びかかったが、羽に指先がかすったもののわずかに届かず、アヒルは俺の頭の上をバタバタと羽ばたいて逃げていく。

「くそ、あとちょっとだったのに」

 寝そべったまま悔しがる俺を見て、雛子ちゃんはへの字に口を結んで真剣な顔つきになる。

「先輩、私もやってみます」
「へっ?」
「思い切ってやれば、私だってきっと」

 なぜか眼が燃えている雛子ちゃんはゆっくりとアヒルに近づき、そして。

「えいっ」

 かけ声と共に飛ぶ。気合いは認めるが、飛距離も速度も全然足りず、ぼてっと前のめりに転んでしまった。

「い、いった〜い……」

 転んでしまった――のはいいのだが。



(おおおおうっ!?)

 倒れた拍子にスカートがめくれ、パンツが丸見えになっているではないか。しかも俺は彼女の真後ろからそれを拝む形で、まさにお宝全開。ちなみに色は文字通りの純白である。

(ラ、ラッキー!)

 と、心の中でガッツポーズしつつ、こんな姿勢でパンツを凝視している姿を誰かに見られたら、スライディングのぞき魔として一生消えない十字架を背負ってしまう。ゴロゴロと横に転がって素早く立ち上がると、俺は雛子ちゃんに手を差し伸べる。

「大丈夫か?」
「す、すみません。やっぱりダメでした……」
「どんまいどんまい、気にすんなって。今度こそ俺が捕まえてやるから」

 スカートのことは気づかないふりをしつつ、俺はアヒルに目をやる。アヒルには人間ごときに絶対捕まらないという余裕が見えるが、しばらく追いかけっこをして逃げ方のパターンは大体読めた。俺は靴のかかとを踏み、両手を広げて一気にアヒルに近づく。

「クワーッ!」

 ひと声鳴いてアヒルが俺の頭上を飛び越えようとしたその瞬間、俺は足を真上に振り上げた。

「フェイントだっつーの!」

 つま先から離れた靴はアヒルめがけて一直線に飛び、見事命中。アヒルは目を回して墜落し、雛子ちゃんに回収された。

「だ、大丈夫かしら」
「安心しろ、峰打ちだ」
「先輩それ意味が違う気が……」
「か、加減はしてあるから大丈夫だ、うん」

 アヒルを小屋の中に寝かせて様子を見ていると、ほどなくして目を覚まし、何事もなかったように歩き回り始めた。

「ほら大丈夫だったろ」
「はい、良かったです。それにしても先輩って凄いんですね。あんなに走り回ってもへっちゃらだし、反射神経もいいし……私とは大違いで。いいなあ」
「はは、健康と体力だけが取り柄だからな。雛子ちゃんだって毎日ちゃんと動物の面倒見てるんだし、偉いと思うぜ」
「そ、そうでしょうか?」
「俺と純なんか、小学生の時に学校で飼ってた金魚全滅させちまったからなあ」
「そ、それは可愛そうなことをしちゃいましたね」
「それぞれ向き不向きがあるんだし、あんまり気にすんなよ。なっ」
「は、はい」

 雛子ちゃんは嬉しそうに、ちょっと顔を赤らめて頷いた。いつも下を向いて具合悪そうな顔をしている事が多いだけに、こういう表情は本当に可愛いと思う。

「あの、今日は本当にありがとうございました先輩」
「いやいや、俺の不注意が原因でもあるし。おまけにいいものも見れたし」
「いいもの?」
「ああっ、なんでもないなんでも。それより、思った以上に大変そうだな」
「えっ?」
「決めた。俺も動物の世話手伝うよ」
「そ、そこまで先輩にご迷惑をおかけするなんてできませんよう」
「俺がやるって決めたんだからいいの。それに、一人でやるより二人の方が楽しいだろ?」
「……はい! よろしくお願いします」

 俺にはもうひとつ、毎日の日課が増えた。動物の世話は馴れないことや初めて知る事がたくさんあったが、楽しそうに動物の相手をしている雛子ちゃんを見ていると、そんな事は全く苦にならない。そんな風に毎日はあっという間に過ぎていき、夏休みが始まった。




 夕暮れの神社で、私は人生で一意番緊張していた。緊張を通り越して、なんだかよく分からない状態だった。夏休みに入っても動物の世話が休みになる事はなく、学校で光太郎先輩と一緒に動物の世話を続けていたある日、先輩は私に言った。

「なあ雛子ちゃん、今度の夏祭り一緒に遊びに行こうぜ」
「えっ、えっ? あの、先輩それって」
「俺とじゃデートなんか出来ないか?」
「いっ、いいい、いえそんな事ないです! い、行きます一緒に」

 地味で暗くてとろい私がデートに誘われるなんて、今まで思ってもみなかった。そんな事を意識したこともなかったから、どうすればいいのか、どんなことを喋ればいいのか全く分からない。色々迷った末に選んだ、白地に金魚柄の浴衣は変じゃないだろうか。私に似合っているだろうか。お祭りで集まった人の多さもあってそんな事ばかりを気にしてしまい、先輩を待っている間まったく落ち着かなかった。

「よっ、待たせちまったな。道が思った以上に混んでてさ」

 紺色の甚平を着た先輩が、人混みをかき分けて駆け寄ってくる。ほっとした反面、これからどうしようという不安がこみ上げてくる。

「あ、あの、よろしくお願いします」
「ほらほら、肩に力が入ってるぞ。祭りなんだし気楽に楽しもうぜ。なっ」
「は、はい」

 先輩の後について、私は縁日をあちこち見て回った。金魚すくいに輪投げ、水風船にキャラクターのお面屋さん。あたりには焼いたイカやトウモロコシのいい匂いが漂っていて、大人も子供もみんな楽しそうな顔をしている。人混みが苦手であまりこういう所に遊びに来たことがない私には、実際に体験するお祭りの空気がとても新鮮に感じられた。

「大当たりー! お兄さんいい腕してるねえ。おじさん気に入ったよ」

 射的屋で黄色い電気ねずみのぬいぐるみを打ち落とした先輩は、それを私に手渡す。

「ほら、雛子ちゃんこれ好きだったろ」
「えっ、いいんですか?」
「はは、俺が持ってても仕方ないし。今日の記念にもらってくれよ」
「あ、ありがとうございますっ」

 ぬいぐるみを抱きしめて、私は深く頭を下げた。確かにこの黄色いねずみのキャラクターは好きだったけれど、それ以上に先輩が私の好みを知っていてくれたのが嬉しかった。祭りを十分に楽しんでいるうちにすっかり夜になり、私たちは宵ヶ浜の浜辺で打ち上げ花火を見ることにした。ぎゅうぎゅう押し合って見上げるよりは、人の少ないところでのんびり見る方が良いと話し合い、少し離れた防波堤の上で色とりどりの花火に見とれていた。赤、青、黄色、緑――夜空に瞬く光はとても幻想的で、綺麗だった。

「ふう、喉が乾いたな。なにか冷たいのでも買ってくるか」
「あ、だったら私が行ってきます。えーっと」

 辺りを見回すと、海沿いの道路にもいくつか屋台が出ていて、その中にかき氷の旗もある。

「先輩、かき氷はどうですか?」
「おっ、いいねえ」
「味はどうしましょう」
「じゃあレモンで頼むよ」
「はい、それじゃちょっと行ってきます」

 防波堤の階段を下りて、横断歩道を横切って少し歩けば屋台が並んでいる。金魚すくいとお面屋さんを通り過ぎ、私はかき氷を二つ買った。レモンとイチゴのかき氷を手に振り返った途端、目の前を通り過ぎようとした人にぶつかってしまった。

「きゃっ」
「うわ、冷てえ!」

 灰色の作務衣を着たその人は大きな声を出し、べたべたに濡れた自分を見てさらに大きな声で怒鳴る。

「おーおー、どうしてくれんだこれはよー!」
「す、すいません……ちゃ、ちゃんと見てなくて」
「すまんで済んだら警察いらんのよ、おーコラァ」

 坊主頭で眉毛がなくて、怖い目つきの人だった。何度も謝ったのに許してくれなくて、同じ男の人でも先輩とこんなにも違うなんて知らなかった。

(ど、どうしよう……)

 怖くてなにも言えず、困っている私を見てその人はさらに脅かしてくる。

「俺を誰だと思ってんだ、あ? 鶴田三兄弟の一人、和奇様と言えば、上倉のワルで知らない奴はいねー。その俺様にかき氷ぶちまけてくれるとは、やってくれんじゃねえの」

 そう言って、和奇と名乗った人は私の腕を掴んで引っ張ってきた。

「は、放して」
「よく見れば結構可愛いよなあねーちゃん。落とし前は身体で払ってもらおうかゲヘヘ」
「い……嫌っ!」

 怖くて心臓がドクドク鳴って、だんだん意識が朦朧としてくる。こんな時に限って、いつもの発作が始まってしまうなんて。

(助けて、誰か……先輩……!)

 私の願いが通じたのか――思わず顔を背けた先に、黄色いねずみのお面をかぶった甚平姿の人が、私を見てコクリと頷いた。

「おっと悪ふざけはそこまでだ、マルコメ坊主君」
「誰がマルコメだコラァ!」
「男がいたいけな少女を脅かすのはよくないな。いじめ、かっこ悪い」
「つーか誰だテメェは? ふざけた格好しやがって」
「通りすがりの電気ネズミだコノヤロー」

 お面の人は私を掴んでいる腕を振り払い、間に割って入る。

「とりあえずマルコメ君、ちょっとこっちに来たまえ。お互いよく話し合おうじゃないか」

 そう言ってお面の人は、強引に和奇という人を屋台の裏の方に連れて行ってしまった。初めのうち、和奇という人の怖い怒鳴り声みたいなのが聞こえていたけど、急に静かになってそれきり彼は戻ってこなかった。

「やあ、やっと話し合いが終わったよ。怪我はなかったか?」

 右手をさすりながら戻ってきたお面の人は、私の肩をポンポンと叩きながらお面を外す。その中身はやっぱり、先輩だった。

「うう、怖かったです……ひっく」
「よしよし、ごめんな。俺がちゃんと付いててやるべきだったよ」
「ご、ごめんなさい……私また、先輩に迷惑かけ……て……」

 緊張の糸が切れた私は、そこでふうっと意識が途切れてしまった。ぼんやりとした意識の中で、先輩が私の名前を呼ぶ声が聞こえた。何度も、何度も。




 起立性調節障害――それが私の病気だ。小中学生などの思春期に見られる病気で、大抵は成長するに従って症状は改善していくという。だけど私は症状が強く出てしまい、高校生になった今でも治っていない。人が多くて圧迫される場所にいたり、少し運動したり立っているだけで動悸や息切れが起き、すぐに失神してしまう。気を失って誰かに迷惑を掛けてしまうたびに心苦しく感じていたけど、せっかくのデートでまた倒れてしまった。私は自分が情けなくて部屋に閉じこもり、ベッドの上で膝を抱えていた。心配してドアをノックするお母さんの声も、私の耳には届かない。私は何時間も同じ姿勢のまま、じっと動かなかった。
 ――ピリリリ! ――ピリリリ!
 枕元に放り出した携帯電話が鳴る。メールの着信音だ。手を伸ばして表示を見ると、画面に表示されているのは先輩の名前。

『こないだはあんな事になっちまってすまなかったな。身体はもう大丈夫か? 埋め合わせってわけじゃないが、またどこか遊びに行こうぜ。今度は最後までちゃんと楽しめるといいな』

 誘いは本当に嬉しかった。すぐにでも「行きます」と返事をしたかったけれど、また迷惑をかけてこれ以上先輩をがっかりさせたくない。でもせっかくの誘いを断りたくない。心の糸がぐちゃぐちゃに絡まるのを感じながら、私はメールの返事を打ち始めた。
 黄浜市にある大きな水族館『百景島シーユートピア』が次のデート場所だった。人工島の上にある水族館『マリンミュージアム』は遊園地とひとつになっていて、デートスポットとしてとても有名だ。日本で最大規模を誇るというこの場所に一度は足を運びたいと思いながら、人の多さに気後れして近寄れず、遊びに行くのは今回が初めてだった。お気に入りの白いワンピースを着て上倉駅へ向かい、先輩と合流して電車とモノレールを乗り継いだ。窓越しに見える青空はとても高く、遠くに大きな大きな入道雲がそびえ立っている。マリンミュージアムに着くまでの間、先輩は私のそばを離れず、ずっと隣にいてくれた。気遣いを嬉しく思う反面、重荷になっているんじゃないか思うと胸が締め付けられる。

「あの、先輩」
「さあ行こうぜ。魚見るの楽しみにしてたんだろ」

 チケットを二人ぶん買って、先輩は手を差し伸べた。私は顔が熱くなるのを感じながら、その手を握り返す。先輩の手は大きくて、温かかった。ラッコやペンギン、シロクマのいるエリアを抜けてマリンチューブの前に辿り着くと、私は上を見上げて思わず声を上げた。水槽の中をガラスの通路が通っていて、その中をエスカレーターで進むと、ブルーに包まれた世界の中を、銀色の刃みたいな鰯の群れが通り過ぎていく。ずっと上の方を見上げれば、大きなエイやウミガメが飛ぶように泳いでいる。

「素敵……!」

 きらめく水の中を優雅に泳ぐ彼らはとても自由に見えた。自分の思うまま、どこまでも飛んでいけそうな。それに比べて自分は、ただ立ち止まってそれを羨ましそうに見上げていることしか出来ない。胸の奥が、またチクリと痛む。私と先輩は手をつないだまま海や川の綺麗な魚が展示されているエリアを見て回り、少し歩き疲れて通路にある小さなベンチで休憩をすることにした。

「やっぱ水族館はいいな。涼しいし爽快な気分になれるっつーか」
「はい。図鑑で名前や姿は知ってても、実際に泳いだり動いてる姿は全然違うんですよね。私、来て良かったです」
「ちょっと人が多くて心配だったけど、喜んでもらえて良かった」

 そう言って笑う先輩の顔を、私は最後まで見ていられなかった。うつむいて目を逸らしていると、通りすがりのカップルが近寄ってきて話しかけてきた。

「あのー、すいません。悪いんだけど写真お願いできるかなあ」

 男の人が頭を下げながら頼んできて、先輩は快く引き受けていた。カップルは水槽の前で仲良く寄り添い、カメラに向かって微笑む。先輩がシャッターを押して写真を撮ると、カップルはお礼に私たちの写真も撮ってくれた。先輩は戸惑う私の手を引いて、さっきまでカップルが立っていた水槽の前で並ぶ。一緒に写真を撮られるというのは、思ったよりも恥ずかしくて、少し緊張した。あいにくカメラは持っていなくて、携帯電話のカメラだったけど、ちゃんと撮れたらしい。撮影が終わって水槽の前から離れようとした瞬間、私の視界がふっと暗くなった。

「――雛子ちゃん、雛子ちゃん!」

 名前を呼ぶ声がして、私は意識を取り戻す。気づくと先輩に抱きかかえられて、さっき座っていたベンチで横になっていた。

「……先輩?」
「ああ、よかった気が付いたか。どこか具合の悪いところはないか?」
「あの、私どれくらい気を失っていたんでしょうか」
「そんなに経ってない。倒れてすぐベンチに寝かせたところだ」
「そう……ですか。私、またやってしまったんですね」
「気にするなよ。落ち着くまでしばらく安静にしてようぜ」
「私……また……」

 意識がはっきりしてくるのが早い。今回は軽い立ちくらみだと自分で分かるけど、もう限界だった。耐えられないと思った。私は身体を起こし、喉が渇いたので水が欲しいと先輩にお願いした。先輩は私に安静にしていろと言い、ちょっと離れた自動販売機まで走っていく。

(先輩ごめんなさい……私、もうダメです……)

 先輩の姿が人混みに消えたのを見届けて、私は立ち上がった。


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